最後の一杯(ラスト・オーダー) 店を出る間際、俺は振り返らなかった。 カウンターに残された 氷の溶けきったグラスと 奴の好きだった 甘すぎる銘柄の煙草。 それが 十年の歳月に打たれた 最後のピリオドだった。 夜の底を這うような 冷たい雨が 傷ついたアスファルトを 執拗になぶっている。 俺は ずぶ濡れになった帽子の庇(ひさし)を下げ 街灯の届かない 影の中へと 身体を滑り込ませる。 「泣いているのか」と 誰かが聞いたとしても 俺は 雨のせいだと 吐き捨てるだろう。 この街で 涙を見せるのは 死体か あるいは 素人(アマチュア)だけだ。 胸の奥で 古い時計の針が止まる音がした。 もう どこへ行っても あの笑い声は聞こえない。 俺は 震える指で 最後のマッチを擦る。 火は 一度だけ赤く爆ぜて そして 闇よりも深い 沈黙へと消えた。