母は、二つの泥棒に追われていた。
一つは、母の記憶を少しずつ剥ぎ取っていく、あの静かな忘却の精。
もう一つは、母の体を内側から蝕む、癌という名の不機嫌な獣。「あら、今日はどちらの御方?」
癌の痛みで顔を歪ませながら、母は淑女のように問いかける。
自分の細胞が悲鳴を上げているというのに、
頭の中の帳面...
母は、二つの泥棒に追われていた。
一つは、母の記憶を少しずつ剥ぎ取っていく、あの静かな忘却の精。
もう一つは、母の体を内側から蝕む、癌という名の不機嫌な獣。「あら、今日はどちらの御方?」
癌の痛みで顔を歪ませながら、母は淑女のように問いかける。
自分の細胞が悲鳴を上げているというのに、
頭の中の帳面...
母は、一輪の向日葵のように笑って、
私の名を忘れてしまった。
それは、夏の夕暮れにふっと灯が消えるような、
あまりにあっけない、手品のような出来事であった。「どなたでしたかしら」
その丁寧な言葉の礫(つぶて)が、
私の胸の、いちばん柔らかな場所を正確に射抜く。
ああ、神様。
これは罰でしょうか。それ...
あさましい、とはこのことか。
かつては、私の背をあたたかく包んでくれたその手で、
母は、自分の便(べん)を弄(まさぐ)り、
お気に入りの牡丹(ぼたん)の茶碗を、
庭の石へ投げつけて割った。
ああ、なんと、滑稽で、悲しい、絵画のような光景。「あなた、だれ?」
一日三度、私は、知らない男に生まれ変わる。...
恥の多い旅路を歩いてきました。
私には、人の言う「まっすぐな道」というものが、どうしても見当がつかないのです。 *朝、目覚めるたびに、私は自分の卑屈な横顔を鏡に探す。
「お早う」と、世間に向かっておべっかを使う。
その口先の下で、真っ赤な舌を出している自分に、
私は、たまらなく吐き気がするので...
また、逃げた。
夜明けの、鉛色の空を背負って、
ぼくは無目的の切符をポケットに突っ込む。「どこへ行くのか」なんて、聞かないでほしい。
誰もいない場所、なんて、
この世のどこを探したってないのだから。
ただ、いまいる場所が、ひどく息苦しいだけ。停車場のベンチで、
安っぽい煙草の煙を吐き出しながら、
ぼ...