Nicotto Town ニコッとタウン

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Lady Day

雨に濡れたアスファルトが、街灯の鈍い光を反射している。
湿った夜の空気のなか、どこからか Billy Holiday の「I'm a Fool to Want You」が漏れ聞こえてくる。
バーの重い扉を押し開けると、安物のウイスキーと、誰かが置き忘れた絶望の匂いがした。
彼女の声は、煙草の煙のようにゆっくりと天井にわだかまり、
傷ついた魂を、優しく、しかし容赦なく削り取っていく。
「この街じゃ、沈黙より彼女の歌声の方が、よっぽど雄弁だ」
俺はコートの襟を立て、カウンターに小銭を置く。
彼女のビブラートが、肺の奥にこびりついて離れない。
正義も、真実も、このハスキーな歌声の前では、
ただの調子外れのノイズに過ぎなかった。
サックスが低く呻き、レコードの針が止まる。
夜が、また一歩深く、俺の背後に忍び寄っていた

裏通りのダイナー。
そこは、行き場をなくした連中が最後に流れ着く、街の吹き溜まりだ。
ジュークボックスが、吐き捨てるように Billie Holiday の「Solitude」を奏で始める。
彼女の歌声には、洗っても落ちないコーヒーの染みのような、重い孤独が染み付いている。
「またこれか……」
カウンターの端で、俺は冷めきったパイをフォークでつつく。
ウェイトレスの疲れ切った瞳が、窓の外の闇を見つめている。
彼女の人生もまた、ビリーの歌う「Strange Fruit」のように、
どこか不条理で、苦い実を結んでいるのかもしれない。
簡潔で硬質なピアノの旋律が、ダイナーのタイル張りの壁に跳ね返る。
ここでは、余計な形容詞はいらない。
あるのは、空腹と、沈黙と、
そして、すべてを諦めたような「Lady Day」のハスキーな震えだけだ。
表では、また雨が降り始めた。
俺は最後の一口を飲み込み、領収書もいらないと言って席を立つ。
ビリーの歌声が、出口の向こうで待ち構える冷たい現実に、
ほんの少しの「赦し」という名の、安物の砂糖を振りかけていた。


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