雨
- 2025/05/15 10:32:30
「風がきついね。」
「…そうですね。」
「どっか、店にでも入ろうか?温かい紅茶でも?」
「…いえ、…いいです。」
「雨、来るかな?分厚い雲が出てきてるよ。」
「…そうですか。」
「傘、持ってきてる?」
「…折りたたみならあります。」
「…。」
「…。」
付き合い始めて日が浅いのは仕方ない。わかる。しかし、この雰囲気はまずい。
でも、このまま空回りの会話が続くのもさらに痛い。なので率直に尋ねてみた。
「ねえ君、今日はどうしたのさ、浮かない顔してるように見えるよ?
なにか心配事があるなら聞かせてよ。力になれることがあれば何でも…」
「いいです、どうか気にしないで下さい…」
「いや、だって、君がそんなだったら、僕も気になるじゃないか。
よかったら、聞かせてよ。きっと気持ちが楽になるよ?」
「…そう?ですか?」
「そうだよ。遠慮しないで。」
少しの間、彼女はよこに視線を落とし考えていたが、そののち
「…やっぱり…無理です。」
「大丈夫。ちゃんと聞くからさ。話してみて。」
さらに彼女は俯きながら沈黙を続けたが、しばらくして決心したように口を開いた。
「じゃあ、私の夢のお話しをしてもいいですか?」
「え?…うん。」
「…夢の中で…私は、ずっと、歩いてるんです……考えながら。」
▼
いつからだろう?私がこの闇深い森を彷徨ってたのは?
尖った枯れ枝はいやだったけど、なにより足元だ。
ぬかるみが多かった。 泥のような柔らかな地面だった。
ずっと、ずっと、「歩かなきゃ…」と思ってきた。
歩かずにとどまると、地面に足がめり込んでいくからだ。
そのまま固まってしまえばもう二度と動けなくなる。
進もうとすればするほどに、何もかもが邪魔をした。
とにかく、
「…歩かなきゃ…歩かなきゃ…」
やがて、暗い平原に出ると、少し足元が楽になった。
やっと森をぬけたのかと思うと、その先に井戸が見えた。
それほど大きくない円形の古い石積みの井戸だ。
(いつ頃からの物だろう?)
近づいてぐるりを一周してみた。これはきっと年代物だ。
淵の石垣の表面は随分苔がむして冷たくしけっている。
慎重に手をそえて、恐る恐る覗いてみた。中を…。
何メートルか下に水面が見える。
(高さはどのくらいあるんだろう?)
こちらの風景を反射して、鏡面の光沢を放っている。
そこにはモノトーンの背景に混ざって自分の影が見えた。
よく見ると、その影は今の私じゃなかった…過去だ。
過去の私を今の自分が見つめている。
さらにもっと覗き込んでみる。深く、深く、
…目を凝らして見る。「居たッ」いろんな表情の私。
同じ顔なのに、同じ私じゃない。
この私は絶対自分とは認めたくない方の「私」。
いっそ、井戸の中に飛び込んでしまいたい衝動が起きた。
そしたら過去の私とすり替われるかも知れない。
(全部知ってる。全部覚えてる。全部私のせいだ。)
…きっとこれを「後悔」と言うんだろう。
私は一生懸命歩いて来たのに…。 来る日も来る日も
毎日毎日、信じて一生懸命歩いて、ここまで来たのに!
今覗き込んでいる自分の姿を、もっと上から眺めてる
悲しい表情をした私… なんてのも居るんだろうか?
その私は、いったいどんな気持ちなんだろう?
いったいどんなつもりでこの井戸を掘ったんだろう?
私は井戸から頭を上げ、両手で顔を覆い、天を仰いだ。
『そんなの…わかるわけない。』
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「…そこで、いつも夢が終わるんです。」
「…」
「あなたと付き合い始めてから、何度もこの夢を見るんです。」
「……あ、…あの…さ、訊くけど…後悔してるの?」
「はい。…後悔してます…。でも、あなたのことは後悔していません…。」
「そっか…」
「はい…」
「折りたたみ傘、持ってたんだよね?」
「…はい。」
…上から大粒の雨が落ちてきた。
この雨はそうそう止みそうになかった。
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