十五年目
- カテゴリ:日記
- 2010/01/16 19:18:59
明日は阪神大震災から十五年目です。
十五年も経てば、震災後建った家や建物も、街というものに馴染む汚れがついてきます。
焦土や瓦礫が整理され、真新しい建造物が次々と立ち並びました。
どこもかしこもピカピカの住宅展示場のようで、街の記憶、匂いが消えました。
思い出の通りを歩いてみると、方向感覚を失って、違う場所に迷い込んだ錯覚に
陥るのが常で、その度にハラハラと哀しみが舞い降りてきました。
あの日、生死を分けたのは、運命としか言いようがありません。
炎が迫る崩れかけた家々で、家族を助けられなかった人、遺体安置所で家族全員の棺の前、ただ一人助かったおばあちゃんの放心。赤ちゃんを胸に抱きしめ
箪笥の下敷きになっていた親子、子どもを救えなかった親、両親を失った子ども
幾多のニュースや記事が甦ります。
それは、見知らぬ人でも、わたしと街の片隅ですれ違っていたかもしれない
故郷の人々でした。
震災後の人々を追ったNHKのドキュメンタリーは、できる限り観るようにしています。
その中で、震災孤児同士で結婚した若い夫婦の物語が胸に強く残りました。
奥さん、といっても若く、彼女は妊娠していました。
子どもなんて欲しくない、と言います。親の記憶がないから、どう育てていいのか
困惑して怖かったのです。
彼女は小学5年生で被災しました。
前日、届いた二段ベッドをお父さんが組み立ててくれました。
嬉しくて、その日から妹と彼女は違う部屋で眠ることになったのです。
激しい揺れに、両親の名を呼んでも返事がありませんでした。ダメだったんだ
そう確信しました。昨日まで家族で並んで寝ていた部屋は、頑丈な婚礼箪笥に
囲まれた部屋でした。祖父母は両親の姿を彼女たちに見せませんでした。
なぜ、一緒に死ななかったんだろう。
そう強く思った彼女は、両親の記憶を封印しました。
覚えておいても悲しいだけだ、と。
笑顔で撮った家族写真の数々、何一つ思い出そうとせず、忘れたまま
生きてきたのです。泣くこともせずに。
おなかの赤ちゃんは不安と裏腹に、どんどん育ち、彼女の中で動き回ります。
そして、迎えた出産の日、痛みと格闘しながら、赤ちゃんは生まれました。
衝撃と共に、彼女の記憶は甦りました。
大声で泣き叫ぶ声だけがきこえました。
「おかあさん。おかあさん。なんで置いていったのよ」
泣き声は一日中、やむことはありませんでした。
失った痛みと向かい合った瞬間だったのでしょう。
同時に両親の愛を見つけたんだと思います。
新たな命が、彼女を前に進めてくれることだろうと、願っています。
生活を再建できた人には、もう十五年でも
戻らぬもの、失われた命を背負った人には、辛く長い十五年でした。
生きている限り、時間は前にしか進みません。
世界では、いつも、どこかで同じような事が
天災でも、人災でも惨い事が起こっています。
当事者でなければ、過ぎてゆくばかりです。
生きることは、時々、本当に過酷です。
それでも、乗り越えて行かねばなりません。
辛いですね。
わたしは運がよくて
もう十五年かと、つい思ってしまいます。
十五年。
頑張ってきた皆さん、本当に御苦労さまでした。
またこれからも……
犠牲になった故郷の皆さん
心から冥福をお祈りいたします。
レスはつけません。
ご了承くださいね。
ラジオで大惨事を聞き、正確な情報を得る事も出来ずにいました。
全ての生物の最大の目標は、種を残す事です。
その目標を見失う事こそ、人生において最大の不幸ではないかと私は考えます。
その女性も、何をきっかけに出産を決意したのかは知りませんが、本当に良い体験をされたと思います。
亡くなったご両親を忘れて過ごした人生も、きっと思い出すことが出来たこの後の人生に
きっと何かを残してくれると思います。
「子別れ」という古典落語はご存知でしょうか?
失ってしまった夫婦の絆を、無垢な子供が再び繋ぎ止めてくれる人情話です。
最後「子は夫婦の鎹といいます」と奥方が言います。
そして「アタイは鎹かい?だからおっかさんが頭を金槌で叩こうとしたんだ」
と下げます。
この記事を読んで思いました。
子という鎹は、夫婦だけでなく自分以外の親子関係まで繋ぎ止める鎹にもなりえるものなんだ・・・。
当時いたのは海を隔てた四国の街だったので
ニュース映像で愕然としました。
ちょうど役員の仕事で友人宅を訪れた時に映像が目に飛び込んで
燃える芦屋の街を、友人と2人で涙を流しながら見つめていました。
でも再現ドラマとかドキュメンタリー見て泣いちゃうんだよね私。
誰もが想像もして居なかった都会での大惨事
親戚が明石・神戸・西宮・尼崎に居住しており被災しました。
その日の内に灘までバイクで駆けつけ1階が押しつぶされた家を見て立ち尽くしました。
かすかに聞こえるうめき声を頼りに近所の人たちと道具も無い中素手で掘り起こし
7・8時間経過した頃ようやく身体の一部が・・・
しかしもう呼びかけにも・・・・
普段は2階に寝ているのにこの日に限って・・・なぜ?
これが運命と言うものでしょう
目の前で助けることも出来ず自分の無力さにやるせない怒りがこみ上げてきたそのとき
某TV局の女性アナウンサーがマイクを差し向け
「身内の方が埋もれておられるのですか?
今のお気持ちは?」
さすがにこの時だけは怒りが爆発してしまいました。
15年・・・・
多くの犠牲者の方々のご冥福を祈り
黙祷
それどころか今日がその日であることも今初めて気付きました。
わりと当事者なんですが。
直後に私は現場にいました。
自分にも何かできることがあるんじゃないか、
衝動的にそう感じ、行動に移していたことを思い出します。
もともとそんな柄じゃなく
実際にたいしたことはできませんでしたが。
あれから十五年。
変わるもの、変わらないもの、変わらなければならないもの
思い出さなければならないこと。
今日この日だけは
記憶の引き出しを少しだけ覗いてみようと思います。
私はテレビからしか情報を得ることは出来ませんでしたが、
当時テレビを観ていても悲しかったです。
同じ国にいるのにまるで別世界にいるようだったので・・・
色々な方が犠牲になり今でも大変な生活をなされているかと思います。
このような事があったことを忘れないようにいつまでも記憶にとどめておきたいと思いました。
方々の事を思って目を閉じた日が昨日の事のようです。
幸いなことに私も家族も、神戸に住んでいた知人は全員無事でしたが・・・
犠牲になられた方々のご冥福を祈るとともに、
生き残った被災者の方々がこれからも強く生きていかれることを願ってやみません。
あの日から、15年早いもんやわ。 ワテも自分の体験を書きますわ。
ワテは、この震災で再起を誓ったんや。
私にとっては、なんてない15年だったけど、
乗り越える事がいっぱいあり過ぎた人々の15年は、どんなだったんだろう。。。
電気工学の大学なのに、誰もTVが映るようにできなかったな。
あちこち呼ばれて映るようにしたけど、映像が映像だけに、言葉がなかったです。
天災+人災の恐ろしさ。
やさぐれていたけど、気が付くと、TVの前で手を合わせて、般若心経となえていた。
ハインリッヒの法則、手を広げてケーブル持っただけの簡易人間アンテナ、新幹線の接続のために
変な時刻のずれかたしていた電車。 なにか途方もなく、言葉もなく、涙もなく、ただただ記憶の片隅で
揺れ動く、微妙な感覚。 辛いね。
(=^. .^=) m(_ _)m (=^. .^=)
こうやって日記を書くことが精一杯の気持ちだったのだろうと思います。
最近月日の経ちますスピードを、とても早く感じておりましたが
震災に遭われ、大切な方を亡くしてしまいました方達は
とても苦しく、辛い想いを胸に お過ごしになられておられるのですよね・・・
私は、TVの映像でしかその当時を存じませんが
私の旦那様は、お父様と
ボランティアで食料の配達に街へと向かい
とてつもない恐怖と、遣り切れない想いで胸がいっぱいになられたそうです。
愛する者を喪い、思い出の家なども失い・・・
沢山の悲しみ、苦しみを胸に今日まで歩いて参られました皆様
私などが申しますのも、如何なものかとも思うのですが
本当にお疲れ様で御座います・・・
そして、皆様の愛しい方達へ
心より ご冥福をお祈りさせて頂きたいと思います。
ほんとに大きな地震でした。テレビを見て、呆然とした覚えがあります。
私ももう15年なのかと思ってしまいます。
今日、こうしていられるのは幸せなことですね。
犠牲者のかたのご冥福を心よりお祈りいたします。
神戸地震のドキュメント番組が多く放送されているけど
怖くて見ることができない意外にヨワヨワな私です(´。_。`)ゞ
震災で生き残った方は、愛する人を突然奪われるという
とてつもなく大きな試練を与えられ、時には逃避して、時には向き合い生きていらっしゃる。
犠牲になった方々の分も、がんばって強く生きてあげてほしいと願っています。。。
俺はこっち(広島)に来ていたので、いつもよりちょっと揺れが強いとしか感じませんでした。
当時の上司の別れた奥さんが神戸に住んでいたのですが、その上司は車に自転車と食料を積み込むと、会社を休んで飛んでいきました。
いつもは嫌なヤツって思ってましたけど、見直した瞬間でしたね。
15年たちましたか。
人間は弱いけど強い生き物だと思います
でも 被災者じゃないと分からないこともありますよね・・今日・・迷いながらブログを書きましたけど・・所詮は部外者の意見なのかもしれないと・・
私からも・・陳腐な言葉しかなくてごめんなさい・・犠牲者の皆々様のご冥福を そして今生きている方々の幸福をお祈りいたします。