「契約の龍」(141)
- カテゴリ:自作小説
- 2010/01/09 00:04:33
両方の耳朶が疼く。
クリスが手にした針は、きっかり一度で耳朶を突き通したけれど、それでも痛いものは痛い。だが、何度もぶすぶすやってしまったクリスの耳は、もっと痛かったはずだと思って我慢する。
「…預かってもらう方は固めとくつもりだけど、こっちはどうする?」
針先を布で拭いながらクリスが問う。
「…固める、って?」
クリスがおもむろに指先で耳朶に触れる。触れた部分がかすかに温かくなり…手を離すとむず痒さが残る。
「…これで、触っても大丈夫」
言われて耳朶に触れると、乾いたかさぶたがポロリと取れ、指先が小さな穴の存在を感知する。「固める」とは「傷を塞ぐ」の意味らしい。…あるいは、「穴を開けたまま固定する」の意味か。
「こんな事ができるなら、自分で開ければよかったのに」
「だから、自分の耳は見えないから怖いんだってば」
言いながら、緑色の石の嵌ったピアスを手に取る。俺がクリスに贈った物だ。
「…なんで、自分で贈った物を自分の耳に着ける羽目になるんだ?」
クリスの指が俺の耳にピアスを留めつける。反対側の耳朶にはクリスが『痛み止め』と称する軟膏が擦り込まれる。
「アレクが不器用で、ピアスホール開けるのに失敗したから、だよ」
そう言って、新しい針を差し出す。
「また失敗したら、こっちも自分の耳に飾る羽目になるよ?」
諦めて針を手に取る。
アルコールで湿した綿で、クリスの耳朶を拭う。耳朶のほぼ真ん中に位置決めして針をあてがう。
…ここまでは、前回も落ち着いてできた。
針を耳朶に対して垂直に当て、力を入れて押す。針の先から血が出てるとか、クリスが体をこわばらせるとかは、見ないようにして、手元に集中する。
「……っ」
クリスが小さく息を呑んで堪える。
「……アレクって、『闘技』の成績、あまり良くなかった、でしょ?」
使った器具を片づけていると後ろからそう話しかけてくる。
「……なんでそう思う?」
「思いきりが良くないもの。練習段階ではかなりいい線いっても、人と向かい合ったら、手加減しちゃうでしょ。防御してあるって解ってても」
クリスが耳を押さえながらご丁寧に解説してくれる。
「まるで見てきたかのように言う」
「…違うの?」
「……まあ、華々しい成績ではない、のは認めるけど。…手加減する、というより、こちらからは手が出せなくてね」
「…それも、子どもの頃に何かあったせいで、とか?」
「そんなこと訊いてどうするつもりだ?」
「どう、って…」
「考えてみたら、クリスの子どもの頃の話って、ほとんど聞いた事がないぞ?強いて挙げれば、「クリスティン」て呼ばれるのをひどく嫌った、という事だけ」
「だって、別に興味を引くような事なんて…リンドブルム拾った母や、生きてるうちにお葬式されちゃった祖父ほどには」
「……クリス。比べる相手が間違ってる。普通の人は、そんな尋常じゃない体験は、子ども時代にはしない。……戦争とか災害でもない限り」
「…そうかな?じゃあ、ケーキを焼こうとして台所を半焼させるのは…」
「クーリース。そういう事言わない」
ピアスを耳に装着し終えたのを確認して、クリスの口を抑える。
「第一焼いたのはオーヴンだけだと言っただろうが。半焼だなんて、人聞きの悪い」
クリスが指先で、自分の口を塞ぐ俺の手をそっと外す。
「人聞きが悪いも何も…ここにいるのはアレクと私だけだし。…それとも、聞いている「人」が他にいるとでも?」
「そういう意味じゃなくて…」
クリスが外した手に指を絡めてくる。
「…クリス?」
「……予定では今頃は「龍」と対峙していたはずなんだけど、な」
「それは、俺の戻ってくるのが遅れたせいか?それとも、陛下が倒れたのが原因か?」
「最初のきっかけは、陛下だけど……」
クリスがこちらを見上げる。
「…そういう話がしたいの?今」
「いいや」
クリスの体を抱き寄せる。
「しゃべって動くクリスが、ここにいてくれて、うれしい」
クリスを抱きしめたまま、手近な場所に腰を下ろす。…といってもベッドしかないが。
「…そんなこと言われると、決心が鈍るじゃないか」
クリスがうなだれてこちらの肩に顔をうずめる。
「誰かに命じられた訳でも、強制された訳でもないけど……誰かが「龍」の頭をひっぱたいて、自分が何してるかを解らせないといけないんだもの。一番それができそうな人が、眠ったまんまなんだもの」
「…うん、判ってる。…だから」
クリスの耳元に唇を寄せる。…ピアスの嵌っていない方だ。
「…どうして欲しい?どうしたい?今は」
「どう、って…」
クリスが口籠る。
「……ごめん、何も考えられない。今は…一緒にいてくれるだけでいい」
「じゃあ、……俺のしたいようにして、構わないか?」
「アレク…の?」
クリスがかすかに身じろぎする。しばらくして、クリスが小さく頷く。