ネクストパンデミックは必ず起こる!①
- カテゴリ:日記
- 2026/07/14 00:38:28
〈ネクストパンデミックは必ず起こる!〉
パンデミックは必ずまた起こる――尾身茂が振り返る日本のコロナ対策、成功と失敗
新型コロナウイルスが感染症法上の5類に移行して、1年以上が経つ。コロナ禍で専門家組織をまとめ、政府に提言した尾身茂(75)は今、コロナ対策に関する政府の検証は不十分だと指摘する。日本の対策は、何が成功で何が失敗だったのか。無観客開催となった東京五輪やワクチンについてどう振り返るのか。専門家としての葛藤と責任を語る。
日本の死亡率が欧米より低かった背景は?
「ウイルスがこれだけ劇的な変化をすることは、『神のみぞ知る』で、われわれ専門家も想像していませんでした。私は長い間、国内外で感染症対策に従事してきましたが、最もしたたかな感染症であることは間違いないと思います」
2020年初頭から世界を翻弄した新型コロナ・パンデミック。尾身茂は約3年半にわたり、専門家として危機に向き合った。
「政府の検証は不十分だと思います。すべての人が大変な思いをした、100年に一度の危機ですよ。誰かを非難するためではなく、次のパンデミックに備えるため、政治家、官僚、専門家、地方自治体、マスコミといったあらゆる関係者が、公開されているデータ、資料等をもとに検証する必要があります」
コロナ禍で専門家組織が出した提言の数は100を超える。尾身はしばしば首相と並んで記者会見に出席し、時に首相とは異なる意見を伝えた。重大な役割を担い、批判の矢面にも立った尾身は、コロナ対策をどう振り返るのだろうか。
「日本の人口当たりの死亡者数は欧米諸国に比べて低い。日本の反省すべき点は準備不足だったこと。よかった点は、それを一般市民等が補ったことだと思います」
欧米諸国に比べて死亡率の低かった要因を、こう説明する。
「国民が罰則や罰金がないにもかかわらず、国や自治体による行動変容のお願い、緊急事態宣言などに自主的に協力してくれました。それから、医療関係者、保健所の人たちのがんばり。三つ目の要因が『ハンマー&ダンス』と呼ばれる施策です」
日本は、医療の逼迫(ひっぱく)が起きそうになると緊急事態宣言のような強い対策、つまりハンマーを打ち、医療逼迫が軽減されると強い対策を解除する、いわゆる「ハンマー&ダンス」を繰り返した。例えばロックダウンで封じ込めた中国と、経済を優先して行動抑制を課さなかったスウェーデンの中間といえる。
準備不足の一例として挙げるのがPCR検査だ。2009年に新型インフルエンザが世界的に流行した際、PCR検査体制の強化が提言として出されていたが、実現しないまま、今回のパンデミックに直面。その結果、検査のキャパシティーがアメリカや韓国などと比較して極めて小さかった。
もう一つ、準備不足の最たる例として医療情報のデジタル化の遅れを指摘する。
「専門家にとって重要なことは、今の状況を分析して、それに基づいた対策を政府に提言することです。しかし分析するためのデータが不十分かつアクセスに時間がかかる。電話やファクスなどで各地域から情報を送ってもらう必要があり、情報分析の担当者が体を壊したりもしました。今回、私たちが感じた最も強いフラストレーションの一つです」
また、質が高いといわれる日本の医療はなぜ逼迫したのだろうか。
「感染症法上の位置づけが2類相当で一部の医療機関しか診られなかったので、患者数が少なくても逼迫するというのがまず一つ。それから、日本の病院は中小病院が約7割で、高齢者医療に特化しているところが比較的多い。また、経営を成り立たせるためには病床をある程度埋めなければならず、いつ来るかわからないパンデミックに備えて空けておくことが難しいのです。さらに病床当たりの医師の数が欧米に比べて少ない。感染症は全身疾患ですから、総合的に診られる医師を育てなくてはならないという課題もありますね」
「尾身茂」とは何者か
「バラ色だった」と語るアメリカ留学時代。前列右側(写真提供:本人)
コロナ禍、尾身は日本中から知られる存在になった。そもそもいったいどんな人物で、なぜ白羽の矢が立ったのだろうか。
1949年、クレーン運転手の父と太っ腹で社交的な母のもとに生まれた。「幼稚園を中退になった」と笑うほど、やんちゃできかん坊だったという。この性格が「三つ子の魂百まで」で、職業選択や仕事の姿勢にもつながっていると自身を分析する。
高校3年の時に当時は珍しかったアメリカ留学を果たす。費用の大部分がアメリカや日本政府の負担で留学生の負担はわずかだったが、家に貯蓄がなく、両親がかき集めてくれた。豊かなアメリカの暮らしを体験し、国力の差を痛感して帰国すると、日本は学生運動のただ中。留学で外交官を夢見たが、言い出せる雰囲気ではなかった。
「外交官なんて、権力側、人民の敵という雰囲気だった。なりたい職業になってはいけないという悩みを抱えました」
慶應義塾大学に進むも、ろくに通わず書店に入り浸る日々――。ある時、『わが歩みし精神医学の道』という一冊の本に出会って開眼し、医師の道を志す。父は大学中退に大反対したが、寛大な母の仲裁で医学部を受験。卒業後に離島などでの医療に一定期間従事すれば学費が無料、また1期生ということが魅力で自治医科大学に入った。
30代で伊豆諸島へ。島の数少ない医師として地域に根を張り、公衆衛生に関心を抱く。やがて友人のすすめで世界保健機関(WHO)に就職。医師でありつつ、外交官に近い仕事にたどり着いた。WHOではアジア西太平洋地域におけるポリオ(小児まひ)根絶やSARS制圧を実現するなど、科学的知見をもとに政治的交渉を成功させる。WHOでのキャリアやその後の日本における実績から、コロナ対策を担うのは自然な流れだった。

























