左回りのリトル(9)
- カテゴリ:自作小説
- 2026/06/09 15:20:37
電車を乗り継いで約一時間半。温泉饅頭と鮎の甘露煮とそば。両親の旅行土産はどうでもよかった。部屋に一人でいるのが耐え難かった。
「兄ちゃん、兄ちゃん」
妹の美幸がまとわりつく。六つも離れていると喧嘩もしない。
「夕飯はお寿司がいいって言って」
「やだ」
「宿題見て」
「兄ちゃんは試験なんだぞ」
「どうせだめなんだからいいじゃん」
「母さん、夕飯すき焼きにして」
「どっちもだめ。今日は生姜焼きなんだから」
「むう」
休みで家に居る父の晩酌につき合う。父が鮎の甘露煮について蘊蓄をたれる。合間に母が旅館の料理や温泉の話を挟む。
僕は今朝の逢坂との朝食を思い返した。似たような光景なのに空気がまったく違う。
世界の隙間を漂う人。山崎にも。僕にも。…自分、に、も。
「あ、」
「何だ、柾」
父は僕の声に箸を止めた。
そうだ、空木秀二の世界の隙間にも漂う人がいた筈だ…。
僕は急に、見た事もない空木秀二を近く感じた。あの怖ろしい『木霊』でさえこの手につかめそうな親しみ。胸のつかえは消えなくてもやわらかく溶けて沈んでいくような感じがする。何なのだろう、これは。
「美幸、あとで宿題持って来い」
僕は箸を置いて二階に上がった。
僕の部屋は物が少ないという寂しげな印象に包まれていたが、僕が入る事で明るさと呼吸を取り戻したようだった。僕は穏やかな気持ちで机に向かう。階下から聞こえるテレビの音や時折の両親の会話、隣の部屋で長電話する美幸の声は、かすかだったが確かでもあり、そしてとてもちょうどよかった。その居心地の良さ。ここが、僕の世界、僕の世界が始まって閉じるダイヤモンドリングのダイヤの場所。
賑やかさは雑念を遠ざけるのだな、と思いながら実家を後にしたのが翌日の夜だった。母に持たされた大きな紙袋には甘露煮とそばと米。重いからいいと言うのを強引に押しつけられた。部屋はすっかり冷えきっていた。ストーブをつけてコートをかけ、お湯を沸かす。留守電のランプに気づいたのはコーヒーをいれてからだった。
一件目。無言。午後10時47分。
二件目。無言。午後11時25分。
美久、きみなのか?
だが、ツー、ツー、という音を聞きながら、それは僕の期待だとわかっていた。
≪どうして、≫
どうしてなんだろうね。僕もそう思うよ。美久。
≪どうして、さみしさが増すだけなのに一緒にいたいのかしら≫
どこかに、再び亀裂が走る。抱きたい、とただ思った。
試験の間、学校と部屋を往復するだけだった。できるだけ河野や美久と顔を合わせたくなかったし、美幸の冗談も僕にとっては「冗談じゃない」という状況だったのだ。一度、遠くに美久の姿を見つけた時、「電話をくれた?」と尋ねたいと思ったが、その答えがイエスでもノーでも結局僕は心をかき乱されるのだとわかっている冷静さに水を浴びせられて走って帰った。
河野が「やっとつかまえた」と話しかけてきたのが最終日、帰る支度をしてコートをはおった時だった。
「打ち上げやらないか?」
「悪い、今日からまたバイトなんだ」咄嗟に嘘をついた。
「つきあい悪くなったな」
「誰のせいだよ」
「……」
今のは傷つけた。
「ごめん」
「いや」
河野はそこまで一緒に行こうと言った。僕は後ろめたさからついていった。
長い沈黙の果てに、どうしたって避けられない話なのだと思った。いや、どんな話題もそこへ行き着くのだろうし、むしろ余計な言葉は煩わしいだろう。河野は、すべてにおいて正面から向かって来る奴だった。今の彼が斜めから言葉を投げてくるなら、それは僕のせいなのだ。僕から言おうと決めた。
「行って来た。銀座」
「うん」
「美…」その名前を口にするのが辛かった。「及川さんの名前があったけど、一緒だったの?」
「…うん」
「そうか。好きそうだもんな」
「何が」
「絵だよ」
「ああ」
途切れがちの言葉が手に負えない。
「…空木秀二の絵が良かったな」
「どれだっけ」
「『水からの…」と言いかけて、「何て言ったっけな」としらばっくれた。
「河野、僕の留守に電話した?金曜と土曜」
「いいや」
「そう、ならいいんだ」
「……」
河野も思っているんだろう、その電話は美久からなのだろうか、と。
結局河野は駅ビルの裏手まで一緒に来てしまった。バイトと言った手前、僕は守衛室の窓口で入館手続きをせざるを得なかった。それじゃ、と通用口の扉に手をかけると、河野が声を張り上げた。
「なあ、本当に、今度ゆっくり飲もうよ。話がしたいんだ」
両目がじんとしてしまった。何とか笑みを作って、頷いてみせた。
(続く)























