Nicotto Town ニコッとタウン

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左回りのリトル(8)

 コンコンと軽いノックの音にびくりとした。山崎が出迎える。
 入ってきた男は女の子みたいな顔をしていた。目深にかぶった帽子の下でも真っ黒な丸い目が強烈に印象的だ。いきなり「山崎、片づけって知ってる?」と言ったので僕は笑った。彼は逢坂と名乗った。
「どうした」
「急に顔見たくなった」
 散らかった床をてきぱきと片づけながら彼はそう答えた。山崎は「そうか」と言って僕の手から葉書を取り戻すと元の位置に座り、片づける彼を見ているだけだ。
「野宮が見て来た絵は?」と訊かれ、僕はパンフを山崎に渡す。
「逢坂、終わったらこれ見てくれ」
「うん」
 逢坂は勝手にお茶をいれて煎餅の袋を開けると、僕にどうぞと勧めた。山崎から葉書とパンフを受け取り「僕に構わず、勝手にやっててください」と言った。
 奇妙な二人だ、とぼんやりと思った。
 山崎が煙草に火を点けた。
「野宮はおもしろい事を言うな。風も動けない、か」
「思ったままを言っただけだよ」
「『水からの飛翔』は?」灰皿に灰を落とす。視線もそこにある。
「あの水はどこなんだろうって」
「水?」
 思い出した。「前に観た映画で、そんな場面があったんだ。湖に女の水死体が浮かんでいる。裸じゃないけど。それがとてもきれいだった」
「湖か。相模湖」
「本栖湖」ふいに逢坂が口を挟む。
「琵琶湖」
「十和田湖」
「屈斜路湖」
「りんどう湖」
「ファミリー牧場」
「茶化すなよ」
「早く止めろよ」
 二人のやりとりに思わず笑ってしまう。逢坂が絵葉書に目を落としながら「世界の隙間だな」と言った。
「世界に生じた亀裂とでも言うのかな。一瞬の隙。世界は僕らを通じて構成されてありながら、僕らは皮膚で外界と呼ばれるものを感じ、内側に自分という一個の世界を自覚している。こんなふうに」
 と、葉書の絵の面を僕らに向ける。
「だから自分と世界は融合しつつ、摩擦さえ起こす事がある」
「自分」僕が呟く。
「さっき僕らを通じてと言ったけど、僕がいなくても世界は在り続ける。ほんの三十分前には、野宮君だっけ、君の世界に僕は存在していなかったしね。そこで世界は個人の自覚という場所から始まって閉じる輪のような概念だと言える。日蝕のダイヤモンドリングの形だね。個人の単位で測った世界だけど」
「それでいいんだろう、亀裂は個人の内部世界に入るものだ」と山崎。
「そうだね、皮膚の外にあると知覚したとしてもそれは結局観念に過ぎない」
「空木秀二は…」
 二人は口を閉ざして僕を見る。
「水面はあらゆるものの狭間だ、と」
 しんと静まった。僕らはそれぞれ煎餅に手を伸ばした。ばりばり。ばりんばりん。沈黙を乾いた音で埋める。ばりばりばりばりばりばり。皆ヤケクソのように噛み続ける。ばりばり、ばりばり、ごくん。再び音が消えると、視線は逢坂に集中した。彼は困ったような笑みを浮かべて、パンフの『水からの飛翔』を手のひらで撫でた。
「個人の観念によって支えられているために、世界は閉じている。けれど他者と出逢い交わる事で、その形はとても不安定に揺れ続けてもいるよね。そこにふいに生まれる隙間に何かが入り込む。隙間に在る、それだけで、それは強烈な存在感を持つだろうね。刺をさすように、自分の」
 自分、という言葉を彼は噛みしめるように発音した。
「内部に入り込んだとさえ感じられる、それは痛みを伴う異物感かもしれないし、欠けていた部分の充足感かもしれない。いずれにせよ、あらゆるもの、と世界全体を示しながら、狭間という名を認める事で、世界は個人の観念の膜に覆われる事がわかる」
 そこまで言って逢坂はまた手にした煎餅を口の前で止めて、小さく息を吸い込んだ。
「その存在は世界の隙間という壮大な流れを漂い始めるんだ」
 ああ、だから、と僕は思った。だから僕はこの絵に美久を重ねてしまうのだ。
 部屋の扉に階段の手摺に夜の静けさに、時計の音に外灯の光にレールの響きに、美久は漂い続けている。
「ほら、」と山崎が彼にビールを差し出す。彼がパンフと葉書を前に置いて缶を受け取った。山崎は葉書を拾い上げるとごろりと横になった。
「世界の隙間、か。隙間にはこんなふうにたくさんの人が集まって動けないくらいになる事もあるのかな」
「そうかもしれないね」
 逢坂の答えに、山崎は葉書を投げ出すと寝返りを打って背を向けた。僕は葉書を手にする。空が言っていた「人の気持ちが見えまくっていたら空間に隙間がない」とは、こんな感じだろうか。美久の幻影に人がぶつかると思ったと言う空に、世界がこんなふうに見えていたら、どうなるだろう。
「人の思いはこんなふうに空間を埋め尽くしているのかもしれないね。何も知らずに駆けて行く僕らの周囲をめぐって」
「うん。多分」と僕は答えた。彼は天井を見上げた。



 翌朝、目を覚ますと山崎はいなかった。
「おはよう」と台所から声。逢坂が朝食を作っていた。炊きたてのごはんにワカメの味噌汁、鮭の切り身に卵焼き、茹でブロッコリー、味海苔。どこの旅館かと思った。
「山崎は」
「さあ。チョロQだから、あいつは」
 いただきます、と手を合わせる。湯気ののぼる食卓は懐かしい感じがするのに、目の前にいるのは会ったばかりのよく知らない人間なのが不思議だった。
「山崎の顔見たくなったって、何かあったんですか」
「え?」逢坂は、ふっと笑った。「まあ、おもしろい顔だしね」卵焼きを口に入れる。
「何か話があったんじゃないかと思って」
「話なら、もう昨夜したよ」
 いつのまに話したんだろう。横になった山崎がそのまま寝入って、僕らも毛布を総動員してくるまった筈なのに。
「山崎の世界の隙間にも漂う人がいる。きっと君にも。外側から見ると、時々それはとても魅力的なんだよ。絵の上に誰かを重ねるようにね」
 そう言って彼は微笑んだ。痛い言葉だった。




 逢坂が山崎の部屋の鍵を郵便受けに入れた。約束があるから、と帰る彼と一緒に、午前中に部屋を出た。忙しいんだな、と思った時、彼はそれに答えるように「やっと暇ができて」と言ったので少し驚いた。言葉はタイミング次第だ。
 自分の部屋に戻ったのは昼の少し前だった。留守番電話のランプが点滅している。ボタンを押すと二件と告げてテープが回った。
 一件目。妹。「お父さんとお母さんが、旅行のお土産があるから明日にでも来なさいと言ってます。自分でかけろー」笑い声。母の声が後ろに入る。「たまには電話しろ、だそうです。自分で言えー。ではでは」午後9時23分。
 二件目。ツー、ツー、という通話中の音。午後11時36分。
 真夜中近くだ。
 誰だろう、と思う間もなく僕はもうせつなさに心臓をつかまれて拳で額をこすった。
 夜中の電話、美久、電話線を伝わる息づかい、気配、繰り返しの、
 繰り返されるフレーズ。

 ≪どうして、≫

 そんな事、僕にだってわからない。

 血が急いで体中をめぐる。些細なきっかけでおかしくなってしまう。
「バカ野郎」
 誰に向かって言っているんだ?手のひらに美久の感触が蘇った。

(続く)


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