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左回りのリトル(7)

 暗い通用口から次々に出てくる人々の暗い色彩の中で、赤いアノラックの山崎はとにかく目立った。180センチの長身は動くだけで目を引く。
「今日はうちに泊まれ」の第一声。僕はそれに従う事にした。
 山崎の部屋は荒川を越えてすぐの町にある。明かりを点けると、床に散乱した様々な物の中に獣道のような空間があり、僕らはそこを歩いた。ヒーターの点火するブーンという音を聞きながら辺りを見回す。雑誌、紙、紙、紙。灰皿、カップさえ床に置いてあり、その横には少し広い空間があった。山崎はそこをさして「そこ座って」と言い、アノラックを床に脱ぎ捨てた。
「おまえの辞書に収納の文字はないのか?」
「食った事ない」
 途中で買った缶ビールを開ける。僕らは部屋の隅と隅に、向き合って座り壁に寄り掛かった。山崎はごくごくとビールを飲んで、「さて、」と口火を切った。
「空木秀二について何が知りたい?それとも空木梢子の方かな」
「両方」
「欲張りめ」山崎はひよこ頭を掻いた。




 空木秀二が亡くなった事故は約半年前、梅雨の頃で、その日も雨が降っていた。山道の急カーブ、濡れた路面、暮れ方の視界の悪さ。事故を引き起こす条件は十分に揃っていた。にも関わらず、T美大では空木自殺説が囁かれた。
 それは空木の作品のイメージがそうさせたのかもしれない。
 だが、あの日空木が「なぜそこにいたのか」、誰も知らないのだ。
 空木の同期生であり親交のあった教授までもが「自殺かもしれない」ともらした事があった。誰かに会った様子もなく、山でスケッチや資料写真を撮ったりするような道具も一切なく───そもそもその日は雨だったではないか───、梢子に行き先も告げず、空木秀二は身一つで消えるように死んでしまった。




「空木梢子は父親の死をなかなか受け入れられなかったらしい。梢子にとって家族は父親だけ、って感じだった。空木は離婚してるんだ。高畠サンがしばらく空木の家に通ってた。空木には兄がいるんだけど、秀二とは反りが合わなかったみたいだな。梢子の面倒を見るのも嫌ときたもんだ。もっとも、梢子も嫌がったらしいけどね」
 山崎は小さく笑った。
「どうして」
「さあ、そこまでは」
「店長には何て?」
「学校でこういう噂があって、高畠サンも否定しないってだけ。一応事実だろ」
 僕らはふふ、と力無く笑った。山崎が以前から空の身近にいたのは意外だった。空はそれを知らないらしい。「空ちゃんには黙ってて」と山崎は言った。
 電話のベル。「はい山崎」とラーメン屋のように受ける。「ああ。今?おまえの知らない奴来てるけどいい?うん。じゃ」
「誰か来るの?」
「高校ん時の友達。あいつ来る前に、これ見せとく」
 そう言って山崎は机の抽斗から葉書を一枚出した。端の汚れた、古い絵葉書だ。
「埼玉県上尾市、山崎隆一郎様」
「親父の名前読んでどうする」
「空木秀二・空木梢子絵画展…あれ、父親宛の葉書を何でおまえが」
「裏」
 言われるままに葉書を裏返した。目に飛び込んだ絵に、僕は息を呑んだ。
 水平線の上に、遠く近く、幾つもガラス板が宙に浮いている。ガラス板の上には木の生えたものと人が佇むものがある。空は火事のように赤く燃えている。海を縁取る入り江は静まり返っているのか、黒い影で描かれていた。そして、
「どうだ?」山崎が訊いた。
「怖いな…。風も動けないだろう」
 空を、海の上を、透き通る人々が空間をびっしりと埋め尽くすように立つ。顔などの特徴を持たないが、その歪んだ姿が苦しそうだった。僕は再び葉書を返して見た。

   空木秀二『木霊』

(続く)

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