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橋の下の家(5)

 以来私は足繁く橋の下へと通った。
 酒を少しずつ小瓶に移して持って行った。長居をせぬための工夫は私の身を案ずる息子夫婦への配慮でもあったが、酒瓶に残る酒を覗いて≪また次がある≫と思うことが楽しくもあった。
 時たま留守にすることもあったが橋の下の家の主は大抵私より先に来ていた。決して愛想が良いとは言えないが、これが彼流の歓待の表れなのであろうと、私が来るより先に出来ていた盃を見つけた時には嬉しくなった。
 私は彼に、何処に住んでいるのかと尋ねることはしなかった。昼間は何をしているのか。仕事は何なのか。そうした質問を退ける雰囲気が彼にはあった。いや、それを訊いてしまえば、ここはただの古い橋の下に過ぎなくなる、酒を呑みに来る理由がなくなってしまう。私は、尋ねたくなかったのだった。
 しかし彼自身について興味はあった。半月程過ぎたある夜、私は彼に、郷里は何処なのかねと尋ねた。
 そんなものはない、と彼は答えた。
 そんなものがあったら、僕はここには居ない
 彼は俯いて、指先で枯葉を弄んでいたが、顔を上げて私に尋ねた。
 あなたはここで生まれたんですか
 ああ、そうだ。父の畑を継いで、ずっとここで暮らしてきた。今は息子が畑を継いで、あとは迎えを待つばかりだよ
 迎えね…
 彼は、誰の、と言うと草の上に倒れてクククと笑った。
 誰が僕を迎えるって?神とか運命とかそんなものは所詮、後から人が名付けるものだ。ああ、ばからしい───だけどね
 彼はむくりと起き上がって背を丸め、上目遣いに私を見た。
 死はただ、死だ。しかしこれから死にゆく者に安らぎを約束するのが、そうした名前だ。あなたよっぽど、死が怖いんだな
 一息にそう言うと彼は口の端だけで笑った。私は、こんな若者にそう言われて、何か言い返さずにはいられない気持ちになった。
 ……君は、怖くないと言うのか
 怖いさ
 ふいに虫の音が大きく聞こえた。
 張り詰めた静寂の中で、私達は互いに身動き出来ずに見つめ合った。




 眠れぬ夜が続いた。
 あの後、私は言葉を失ったまま立ち上がり、家に戻った。それから暫く、あの橋の下へ行く気にはなれなかった。
 朝の冷え込みは体に厳しかった。畑に出ても何もしないに等しい。嫁は私を気遣ってか、孫を私に任せ、家に居るようにと言った。孫の世話で一日が終わる。眠れずに起き出してこっそりと啜る酒は、味がしなかった。
 ずっとこうして生きてゆくのか───こんなふうに。
 思うように動かない重い体、味のない酒───
 なぜだ。なぜ、もう私には何もないんだ。
 答えは簡単だった。私は、老いたのだ。
 この地に生まれて、畑で働く父を見て育った。成長した私は父について畑に出た。土を返し、種子を撒き苗を植え、虫を除き、収穫する。春には春の、秋には秋の野菜を街に卸し、この家に戻って来た。この家と街を繋ぐ、あの川沿いの道を、辿って来た日々。
 あの道しか、私にはなかった。私の人生にあったのは、ただ一本の道だった。
 だから、働けなくなった私にはもう、この家しかないのだ───
 息子夫婦が畑に出る間、孫を見る。歩き始めたばかりの孫が、椅子に腰掛けた私の膝に掴まって立ち上がる。私は孫を抱き上げようと腕を伸ばした。
 ───もう何もない人生を生きるのだ。死ぬまで。
 だが、それはいつ訪れるのか。こんなふうに、もはや何も変わりようのない日々を───
 孫は日に日に育ち、重くなってゆく。何もかもがこれからだ。全てが不思議に満ち、知りたくて、欲しくて、小さな手を伸ばしている。孫の小さな手が私に伸びて、袖を掴んだ。強く引っ張って、私を引き寄せようとしている。孫にとっては、私もこの世の謎の一つなのだろう。
 彼の姿が目に浮かんだ。
 私の人生の、あの道の途中、橋の下に突然現れた人物。これも運命と名付けることができるとするなら、運命に見放されて死期を待つ私に、その時をもたらすのは彼なのか───
 孫は懸命に手を伸ばして、私の体をよじ登ろうとしていた。抱いて欲しいのだ。私は孫を抱えて、胸の方へと持ち上げようとした。
 手に力が入らない───
 孫は私の腕からするりと抜け落ちた。
 ≪お父さん、お父さん≫
 ≪どうしたの、お父さん≫
 孫の激しい泣き声に、畑から戻った嫁に呼ばれて我に返った。嫁は床に転げた孫を抱き上げた。≪何があったの、こんな、こんな……≫見ると、孫の額が切れて血が溢れ出していた。嫁は動転して叫んだ。
 ≪こんな怪我をさせて放っておくなんて、どういうつもりなの!≫
 ───何をしたのだ、私は…
 いや、そんなつもりではなかった。だが……
 その夜、私は酒を持たずに家を出て、あの橋の下へ向かった。

(続く)

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