恩を返すお話。(10/21 21:20編集)
- カテゴリ:日記
- 2025/10/21 12:29:35
この記事の前に投稿した「「他者を理解しようとするお話。」」の続きの様な物だヨ!
なのでもしも興味を持って頂ければ、見てくださる方の貴重なお時間を頂く事は申し訳ないとは思いつつも読んで頂けると私の思考が伝わりやすいかな、と思っています。
私は他者を素敵だと思う。
美しいとも思う。
私よりも博学でいつも私と触れ合う人は私に新しい知識や知見、もしくは見識を与えてくれる。
でも私は人間って生き物が基本的に嫌いだ。
私の原動力になっている物は、義理であって私はきっと口先だけで誰も愛してはいない。
その上で恩返しのお話をしようと思う。
私はニコッとタウンを除けば、もはや仕事以外の付き合いは基本的に無い。
その理由は私は趣味に没頭しているだけで基本的に満たされていて、たまにニコッとタウンで日記を書いてコメントを頂けてそれでちょっとしたコミュニケーションを取れる事によって孤独を感じる事が無く私は完結している。
だからこそ私は今幸福で有り、必要以上の関わりはノイズになってしまうのだ。
異論は勿論あると思う。
ただ現状、私は自分自身金銭的な不自由も無く趣味に没頭する時間で満たされている。
その中で満たされない物を埋め合わせる為に私はニコッとタウンで人との交流を求めたのかもしれない。
だからこそ、私は今の環境に自身が適応出来て生存出来ていると言う結果がある。
その中で私は前述の通り「義理」が原動力になって生きている。
仕事で有れば、恩を感じたのであれば利益を出せば良い。
そうやって生きてきた。
実際に私は正直もう働かなくても、月20万の支出で80歳まで生きる程度の貯金は保持している。
これは私の中で「成功」と言っても過言ではないと思う。
それでも今でもフリーランスとして働いているのは、人から感謝される事によって自尊心が満たされる。
それだけなのである。
ではもしも人に「愛」を与えられたら私は何を返せば良いのだろう。
と思う事がある。
悲しい事に、私はアセクシャル(無性愛者)なのである。
他者に恋愛感情を抱くことも無ければ、色を好む事も無い。
だから私は今まで「一緒にいて楽しい」それを理由に恋愛をしてきた。
正直私が誰かと一緒にいる理由は「楽しい」それだけの理由だけに相手が男性でも女性でも、例え人外だったとしても正直なんだって良いとすら思っている。
でも私が今まで交際してきた中で、相手が求めてきた物は私に対して恋愛感情や色欲に準ずる感情を求めた。
当たり前の事だとは思う。
それを断る事によって相手の尊厳を傷つける事も無知な私でも理解は出来た。
じゃあ、私は何を返せば良いのだろう。
私が与えられる最大級の愛は「敬意」であり「相手を理解したい」と思い自分の命と言う有限を削る事。
相手がそれで満足してくれればよいのだけれども。
と常々思う。
それだけのお話。
ちなみに私は自分が何故「人が嫌い」なのかは語るつもりはない。
その理由はそれを語ってしまったら、ある種それは「こうすれば良い」と言う他者が私を解釈する余地が生まれてしまうから。
追記: もしかしたら「人が嫌い」なわけじゃないのかもしれない。
これはいつか投稿するかもしれない「矛盾するお話。」と言うタイトルの記事に繋がる物になっております。(書き上がってはいるのですが投稿はしないかもしれないです!)
あまりにも長い間、金銭と言う見返りを求めたり求められたりする時間を過ごして「見返りのない善意」そういった物が存在する事を完全に忘れていました…。
何かをして貰ったから何かをしてあげる、が私の場合「しなくてはならない」だったのです。
何と言うか、自分の傲慢さ…なのでしょうか。
共生する事、お互いに助け合う事が自然である事が脳から抜けておりました…。
かつての私が私利私欲に走っていた時もあったり、私利私欲によって動く人間ばかりを見てきた影響でしょうか。
ただこれはそう考えるようになってしまった私自身の責任であって、この表現をする事によって他責になってしまいますね…。
ほんの一コマの人生、それだけは覚えていました。
ただその中で自分が何を成す事が出来るのかはこれから見つけていこうと思います。
宗教についてのお話なのですが、私はまずナナ様のコメントを見て「宗教っぽい!」と言った感情は全く感じていません!
後は私は宗教の価値観を押し付けてくる方があまり得意ではないと言うだけで、宗教と言う物を否定するつもりもないです…!
嫌に思うどころか、色々な大切な事を少しずつ思い出せてきている感覚と感謝の気持ちしかありません。
ありがとうございます…!
何かしてもらったから何かをしてあげる、
そういう考えとは違うもの。
人は森羅万象に生かされています。
そう思えば
恩恵は有り難く思えますし
自然や生き物と共生するのは
自然とも思えます
私利私欲に走ったり
他者を傷つける行為は出来ないものです
時間にはみんな限りがありますね
人だけではありません
動物も植物も
惑星も
長い時間のほんの一コマの人生で、
何が出来るでしょう
略奪でしょうか施しでしょうか
宗教じみてますかね…
お嫌に思われたらごめんなさいです
素敵な恩師様ですね…。
私がバーテンダーをやめた理由として、常にアルコールを過剰に摂取した状態が続いていて「これ続けたらそのうち死ぬなあ」って思った事が原因でした。
飲まなければいいだけの話ではあったのですが、お客様から頂いたお酒をお断りする事によって楽しい雰囲気を壊してしまうのはあまりにもお互いにとって悲しい事なので…!
孤独や孤高を謳ったとしても、周囲に人がいる環境にいる時点で孤独感と言う物は人が勝手に思い込むだけのものであって、本当は孤独等存在しないのかな、とあみ様の文章を読んでいて思いました。
私の恩師は「循環」と言う言葉を良く使っていました。
全ては巡り巡る物であって、恩師が私にしてくれた事もそれはまた「循環」の一つである。
と。
あみ様のおかげで大切な事を思い出せた気がします。
きっと、私が助けて貰った様に私が誰かを助ける事によって「循環」させる事が大切なのかもしれない。
と自分の恩師の言葉を深く理解出来ました。
私もあみ様の様に、そういった機会があれば何かしらしたい…ですね…!
思えば確かに見えない関係で繋がっている。
そういった考えも私の頭から抜け落ちてました。
あまりにも、あまりにも本当に色々な事を思い出させてくれた上で気づかせてくれる文章でした。
ありがとうございます。
本当に…!
私もにゃんとも言えないのだ…。
ただ一つ言えることは「ふわあ」がかわいいなって思ったくらい。
なので取り敢えずポケモンのクヌギダマを差し上げます…。
必要以上に関わってしまうことで自分の時間が阻害されてしまったり、依存されてしまったり色々な毒を含んでいるって思っています…!
「義理を欠いても生き延びよ」と言われたことを思い出しました。
生きること以上に大切なことはないのです。
たとえ孤独でも孤高でも、周囲には人がいる。
それが社会というもので、そういう中でやはり恩を感じると返さねばという気持ちになりますね。
恩返しの相手は、必ずしも恩をくれた人でなくていいんじゃないかな。
私も20代から30代にかけてフラフラしていた時期がありました。
その時に単なる知人でしかない人がご飯をご馳走してくれて(それも何度も)、「私に返さなくていいからamilitaさんが金銭に余裕ができた時、同じようにご馳走してあげればいい」と言ってくれました。
それ以来、後輩とご飯を食べるとか、失業中の友人と会うとかの機会がある時は私が出して、いつか同じように誰かにご馳走してあげてと伝えてきました。
種まきみたいなものでしょうか。
カフェとかのサスペンデッドコーヒーみたいな。
たとえ顔の知らない人の無関係な恩恵に知らず知らず与っていることがあるかもしれませんね。
自分自身は誰とも繋がっていないつもりでも、社会は見えない関係で知らない人同士が繋がっていると私は思っています。
にゃんとも言えない。