自作小説倶楽部6月投稿
- カテゴリ:自作小説
- 2025/06/30 21:37:38
『夢の図書館』
前を歩くのはステッキを使う老人でやや猫背気味だった。
後ろの青年は老人に歩調を合わせている。
「変わらないな。ここだけは時間が止まっているようだ」
老人は巨大な書架やわずかな明かり取りの窓を見上げて思わずつぶやいた。
「先生の研究の基礎がここで築かれたのだと思うと神聖な気持ちになりますね。まさに天使がいる領域ですね」
青年は老人への尊敬の念も露わに少し興奮した口調で言った。それが老人には面はゆい。
「私の研究は私だけの功績じゃないよ。ここでね。K教授の遺稿を読ませてもらったんだ。あれに古代に夢見ることを教えられた」
老人は受付カウンターにほっそりとした白い姿を見つける。
「天使か、」
カウンターにいる女性は慣れた手つきでブックトラックに本を並べていた長い髪を後頭部できっちり結い、化粧っけは無いが澄んだ美しさがあった。次に彼女はパソコンに向かって作業を始めたので老人は少し驚いてしまう。
「この図書館にいるのはね」
老人は振り向くことなく言った。
「天使じゃなく魔女なんだ」
青年が反応する前に老人はカウンターに歩み寄った。
◆◆◆
一人の男がその図書館を訪れた。
男は表面上平静を装っていたが整髪料をつけすぎた髪と古い上着の袖口のほつれを気にしていた。自分の貧しさが周囲にばれるのが恐ろしかった。配架図の前にいた老人がちらりと男を見たような気がして慌てて目を逸らす。
周囲を見回し、新書の棚の側に立っていたほっそりした女性に声を掛ける。
「K教授の遺稿を出して欲しいんだ」
「閲覧許可書はお持ちですか?」
「これだ」
渡した書類は本物が司書の女性がそれを検分する間、少し緊張する。閲覧理由が嘘だったからだ。男の興味はK教授の発掘した遺跡の歴史的価値ではなく遺物の金銭的価値にあった。
少しお待ちください。と司書はカウンター奥の扉に姿を消した。
「君、あの女性はここの職員なのかね」
老人が声を掛けて来た。老人の興味が男ではなく司書の女性にあることに警戒を解く。
「そうですよ」
「てっきり学生かと思ったよ。エプロンも名札もしていなかったな」
そう言われて、男は彼女が動きやすそうなブラウスにスカートという地味な服装だということに気が付いた。
「君はこの図書館をよく利用するのかね?」
「いいえ」
二十年ぶりです。という言葉を男は呑み込んだ。純粋に学ぶことが楽しかった自分を思い出すと今の自分が一層惨めになりそうだった。
■■■
二人の青年が図書館を訪れた。
黄色の髪の青年はカウンターに座る女性を一目見ると書架の間におびえた小動物のように隠れてしまう。気付いた黒髪の友人は後を追い尋ねる。
「どうしたんだよ。振られたとはいえ、取って喰われるわけじゃないだろう」
「自分でもよくわからないんだ。今でも美人だな。とは思うけど近づいてはいけないような気がする」
委縮した友人の言葉に黒髪の青年は急に愉快になった。彼自身も司書の女性に淡い気持ちを抱いていたが、友人のようにそれを告白する勇気も自信もなかった。
俺が彼女と親し気に話せば友人は悔しがるだろうか?
新入生の時にK教授の発掘について質問したことを思い出す。彼女は親切で丁寧だった。彼が通う大学のすぐ近くの丘の遺跡の発掘を指揮したK教授は古代の王への経緯から発掘品を元に戻し、遺跡を封印したという。
---------密閉された部屋の壁には金と白で楽園が描かれていたの。その単純だけれど素朴な絵に感動した教授は思わず涙を流していたわ。
彼女はまるで神話を語る巫女だった。
「貴女はまるで見て来たかのようにK教授のことを話すんですね」
もっと気の利いた会話をすべきだったと後悔したが、どんな賛美の言葉も青年の胸の内で湧いては泡のように消えていった。
友人から離れて青年は卒業論文のための資料を探し始めるが思い出に引きずられてなかなか作業に集中できなかった。彼女のことばかりではなく自分が考古学者の夢を諦めて就職しようとしていることに落ち込んだ。
視線は彼女を探し始める。そして、ふと考える。
そういえば彼女は何歳なのだろう。司書として働いていたのだから年上なのは間違いないが、今でも同い年のような若々しさを保っている。
まるで彼女の時だけが止まっているように。
馬鹿げた考えを打ち消すと青年はメモを取り出して作業を続けた。
◆◆◆
暗がりで彼は彼女と対峙していた。丘の遥か下には町の明かりが輝いている。
ランタンのわずかな光の中、彼女は白い影のように暗闇から浮かび上がっていた。
「貴女は一体何者だ? 遺跡の神を崇めるカルト宗教か? 俺が昔会ったのは貴女の母親か?」
「どちらでも無いわ」
心底呆れたという様子で彼女は首を軽く振った。
「私は外見はほとんど変わらないし、人より長寿なの。〈魔女〉と呼ばれたこともあるわ」
「その魔女が何だって遺跡を守っているんだ?」
「守っているというか、立入禁止なのよ。K教授が発掘後病気になったという話は知っている?」
「呪いだとか噂になったあれか。でも、病気は快癒した」
「私がいなければ死んでいたのよ。本当に呪いがあったの。私はね、呪いの解呪と侵入者を保護するためにあの町の図書館にいるの」
まさか。と彼は思ったが、彼女の圧倒的な存在感から反論することは出来なかった。目の前の魔女は彼よりも上位の存在だった。
「そんな。だったら何故、俺に遺跡に夢を見させたんだ」
「人が夢見ることで、この小さな遺跡は保護されているのよ。個人の人生にも夢は大切よ」
「俺だってもう歳だ」
「私の前で年齢を嘆くのはやめなさい」
●●●
「お久しぶり」
老人が声を掛ける前に気付いた彼女はにっこり笑ってあいさつした。
老人も挨拶を返す。魔女の前では彼が若かった60年前に戻ったような気がした。
「今日はこれを図書館に寄贈しに来たんだ」
老人は分厚いファイルを取り出す。
「私ももう歳だし、人生を振り返って思うところを書き残したんだ。いつか君が見せてくれたK教授の遺稿のように引っ掛かる若者がいるとよいな」
魔女はまだ新しい原稿を入れたファイルを見つめた。