Nicotto Town



彼女の亡骸

「あなたは自分の屍体を見たことがありますか」
 そう言って、彼女はゆっくりと銀の匙でコーヒーをかき混ぜた。
 いいえと答えると「そうでしょうね」と微笑んで、「私はありますよ」と続けた。砂糖とミルクを混ぜられたコーヒーは、匙を抜いてもしばらく回っていた。
 その回転を見ていた僕は、まるで目眩のように感じて、自分の手元のコーヒーに視線を移した。俯いた額に話しかけるように、声が目線より上から聞こえる。
「人はどんな状態になっても生きようとするものなんですね」
 答えられずにいる僕に構わず彼女は話しかけていた。
「絶望の力というのは壮絶です。私は二つに引き裂かれて、片方が死ぬことによって生き残ろうとしたんです」
 そういうことか、と少し理解した。「見た、というのは…?」と尋ねると、彼女はクスと笑って、
「気づいたら目の前に人が倒れていたんです。よく見たら私でした。…おかしなことを言うでしょう? でも本当なんです。胸の前で腕を交差して、まるで何かを抱いているようでした。それを見てわかったんです。私は、大切なものを守る為に死んでいったの」
「……」
「死ぬことでしか守れないものがあるって初めて知りました。だから私は、まるで白雪姫のように、その屍体の周りを花で囲って、しばらくその屍体を眺めて過ごしました」
 なんとなく想像する。
 白い花に埋もれた彼女の亡骸──彼女には白がよく似合う──たとえそれが彼女の幻覚だとしても、彼女にはそれが現実の実感であり真実なのだろう、と考えてみた。
 今、目の前でコーヒーを啜る彼女はごく普通に見える。
 だからだろう、僕の脳裏に彼女の亡骸が生々しく浮かんで消えた。
「毎日、私の片割れの屍体を見ていたの。だけど不思議なもので、時が経つと見えなくなっていった。きっと残った私の生きようとする細胞の活動が、記憶に働いていたのね。忘れるというのは生きる為の重要な作用なんだわ」
「そうですね」と、やっと答えた。
「気がついたら私の屍体は土になっていました。そこで私はやっと、お墓を建てたの。…ずいぶん、時間が必要だったけど。時間は記憶を風化させます。でもそれまでが長かった。気がついたら私、こんなに老いてしまったわ」
 そう言ってまた彼女はクスクスと笑った。
「映画のタイトルじゃないけど、人は時に、何度も死ぬことができるのね。…忘れる、と言った方が正確かしら。実際に死骸を見るなんて、なかなか無いことだと思う。人は『忘却という死』を何度も繰り返して生きることをやり直してる。私にはそれが死骸に見えただけのことで」
 そう言ってまたコーヒーカップに唇をつける。コーヒーは少しぬるくなっていた。僕もそれに倣う。少しの沈黙。
「今、思い出して笑っているのは、」
と彼女が静かに呟いた。
「忘れていたからなのね」
 僕は、それでいいんでしょう、と答えようとしたが、それを察知したかのように、彼女が「それでいいんでしょう」と続け、話の間、伏し目がちだったのを顔を上げて僕を見た。同時に僕も目線を上げた。
 この上ない優しい微笑みがそこにあった。
「聞いてくれてありがとう。もう、行かなくちゃ」
 彼女の白いセーターの肩で黒髪が揺れた。僕はただ頷いて、──頷くしか、なかった。
 いつまでも見ていたかった微笑みで、彼女はすうっと消えた。
 テーブルの上には一人分のコーヒーしかなかった。
 僕は冷めたコーヒーにミルクを落として、軽くかき混ぜ、向かいの壁に掛けられていた絵を見遣った。
 彼女がこの席でコーヒーを前に微笑む絵だった。
 薄暗い店内の絵の奥で、魔物達がカウンター席に着いている。
 この世に生きるあらゆる感情が、魔物の姿を借りてそこにいた。
 あんな者達を、抱きしめて死んでいったのか…彼女の半身は。
 それはとても美しいことに思えた。
 そして、彼女の消えた後に残った椅子を見つめて煙草をくわえ、火を点ける。煙をふうーっと吐いて、そこにいたのは僕の半身だったのだと、煙のせいにして熱くなった目頭を押さえた。




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