愚痴、貪り、怒りを
- カテゴリ:日記
- 2025/03/08 22:20:01
仏教の三毒、貪瞋痴というらしい。知識として知っていたけど、最近なんかそういう仏教の画を見た。その貪瞋痴がそれぞれ鳥蛇豚で書かれたものがあるという。知らなかった。貪るのって豚かと思ってたら貪るのは鳥だという。そういうところがなんだか面白いです。知らなかった。知らないと「豚のように貪る」とか言いそうでした。でも貪る動物の象徴としては仏教は鳥だそうだ。ウィキペディアに載ってた。貪る鳥、無知で愚昧の豚、怒りの蛇。蛇っていうのはなかなか重たい念を人間に象徴させられがち。ただ蛇ってだけで。
毒親、毒親というけれど、毒親という言葉には、この仏教の毒、貪瞋痴を成す親という意味があったのだろうか。毒親って、実は歴史深い言葉だったんだ。知らなかった。私は無知の痴が濃い毒親なのだと思う。残念ながら。無知、貪り、怒り。私はこの貪瞋痴をほとほと自分であきれるほど備えた人間だと思う。食べるの好きだし。怒り、については怒りや愚痴ってほとんど食事と同じ位毎日飽きずに心に抱いて、一日も怒りを忘れず生きてた気がする。無知や貪りもそうだけど、三毒の中でも「怒り」が私の大きな課題なのかな、という気がする。老いていくにつれ、貪りや無知が多少なりともどうにかはなる。でも、「怒り」というのは年齢があがればあがるほどむしろ昂進していきそうな気がする。どう怒りを抑えていけばいいか。とても関心が高い。心ならない現象に怒る。怒りをどうするか。怒りをどうするか、まったく答えは見つかりそうもないというのが、なんとも残念すぎる今日の私の今の真実でした。怒りって、自分の血管や骨格くらい、どうしようもないのかな?と思っていました。普通の人はどうしているのだか。きっとその、三毒とその問題を明確にした仏教には、その毒を克服する道しるべがきっとあるのだろう。だから人は、迷うと偉い僧侶とかに悩み相談したくなるのかもしれません。
相反する言葉が、毒にも薬にも
仏教の三毒を表す蛇鳥豚の画にも描かれているけれども、その三匹の動物は互いのしっぽを食い合って、互いが互いをみつどもえになり、けん制している、という状態が描かれていた。なんと、驚くべき事に、貪瞋痴という根本的で許しがたい存在その三つが、その三つそのものが、互いを抑制しあって存在している、という可能性があるのだ。この、仏教の画を書いた人、本当に凄いな、と思う。そういうのを画であらわしているんだよな。とか歴史の長さ重さはるかな人間の築き上げた叡智なんかに触れると、しかもそれが絵でわかりやすくなってるとか、ほんとに凄いよアーティストって。と尊敬しかない。
怒りを抑制するには、なんも考えない脳。
怒りを抑制する一番いい方法ってなんだろう?としたら、「なんも考えないでいいじゃない」っていう言葉だとする。なるしかならない。考えたってしょーがないじゃない。気楽にいこうよ。イージカムイージーゴーですよ。気負わなければ、案外人生うまくいきますよ~。と。そんな楽観的なスタイル。それがやっぱり、人生の中で一番怒りを手放す最短距離だよな、と、怒りと一日も離れなかった私としては、そうとしか思えません。莫迦になれればなれるほど、明日どころか、一時間先の心配もしなくていいとしたら、人間楽しくて仕方ありません。楽しい事があるでしょう?そうなんでしょ。と、何の根拠もなく現実世界を盲目のまま、生きていけたら、それはなんという幸福なんだろうか。もう何も心配ないんだから怒る必要もない。つまり、「怒り」を手放す一番の薬は、「愚か」になる事なんじゃないのか…?といつも私は思います。「私は右も左もわからない新人で」とか言う人って、誰しも親切ですし。「私はバカです」と宣言できる人って、本当に怒りを上手にうまく乗り越えられる人だと思います。じゃあバカになれる事が一番最高の人生の送り方ならば、バカでいいじゃない。というけれども、本当に何もしらない赤ちゃんのままで生きられたら、そりゃいいですけど、そうもいかないのがこの世知辛い悲しい浮世の渡世ではなかろうか?「私って、世間知らずで」で本当に若い時はそれでよくても、25歳位から「世間知らずで」じゃ許されなくなるどころか、三十にもなれば、「何もわからないですけど私を大切にしてください」って言うのは、まさに愚かだと愚痴の絶好のまと。という人に成り下がるのではなかろうか。自分は謙遜のつもりで言ったかもしれないけど、もう若い人と同じふるまいでは許されない、という生き方を求められるのが、老いていくという事なのかもしれません。本人は「自分まだ若輩者です」っていう謙虚さで人に好かれているに違いない、と思っているでしょうけど(笑)本当に謙虚な人だった人しか、横柄な人として出世できないんだな、と最近つくづく思います。下積みがあるから、人は横柄な偉い人になるんだ。と、いい年こいて面従腹背してるやせ我慢すらままならない残念な大人を見ると、年をとることの壮絶な難しさ、生きる事は、やはり愚かなままではできない事なのだ、という事が骨身に染みてきます。愚かな人、私は好きですけどね。私は好きだけど、世間一般の人はおろかな人が大嫌いな人が多いというのが現実世界です。やっぱりそこで、貪瞋痴の痴、愚昧では、愚かのままでは身を亡ぼす事になるぞ、と言う事になるのでしょう。でもその愚かさ、というのも、身を助ける事にもなるのでは?という言い方もできて、なんともなんとも、なんともこれが面白い、三毒の消し難さの根本的な理由。薬だから必要で、必要であるが毒になり、毒となった時に薬を欲したら、その薬もまた、毒であった。というようなイタチごっこ。それが三毒がなぜこの世界から消えないのか、消しきれないのか、死刑にできないのか?という理由の面白さであるかもしれない。どちらがどちらにも攻守あり、善悪あり、だからこそ私たちは、善を必要とするほど、悪を必要としえいると言い換える事もまったく同義だとしたら。三毒は、実はただ唾棄するべきものともいえず、それがどういうものなのか、ちょうど人類が薬の知識を築き重ねてきたように、慎重に適切に公正に取り扱う、という事が必要なのかもしれない。毒のあるトリカブトを、「これは不幸になるから」といって、遠ざけて誰にも知られないようにする、というだけでは誰も幸せにならない。むしろそれは、人類で適切に「どのような毒なのか。」という事を共有して見極める。見極める事が、どのような毒なのかを知ることが、まずは最初の幸せの絶対条件なのかもしれない。仏教的な言い方をすれば、悟ることが必要だ、とか言いかえれるかもしれません。でも悟ることに意味があるのか?悟ったところで、三毒を消す方法は無い。三毒が三毒の抗生物質なのだから。消せない事を悟ったら、人はますます絶望してしまうんじゃないのだろうか…。知識は時に、絶望で人の精神をドン底に。でもそれが、人間の人生っていうもんかもしれません。どれだけ高く昇っても、落ちる。むしろ落ちる感覚があるだけ、賢いのかもしれません。落ちてないと思ってる人より。