♡・・*・・♡・・*・・♡・・*・・♡・・*・・♡・・*・・♡・・*・・♡・・*・・♡
この冬の日曜日、月曜日はきっついなあー。しかも「2024ぴのぴのアカデミー賞」の選定、清書も終わっていないいい。
大寒なのにプラス気温で市内は泥だらけです。
では、月9前に第3回目視聴後の考察します。
・うーーーむ。やはり「御三家」と「御三卿」がごっちゃごちゃのまま、話しが進んで行くうー。
田安=福島=松平家、一橋=東京=一橋家、清水=静岡=清水家
この時点で将軍家治には息子無し?ってこと?
家治逝去なら、まず「御三家」ラインが発動では?
吉宗発案の御三卿が強い?
・賢丸を白河に入れるとなぜ格が上がるんだろう?
・石坂浩二ほかの老中が御三卿の「松平家」なのは、一番格上ということ?
・ラストに胸かきむしって没したのは田安長男、治察。これで得するのは「清水」と「一橋」。犯人は一見は人形使いだが、清水も怪しい。
・吉原女郎は多額の借金があるはずだが、新潟県に売られて行くというのは、見受けの額以上に支払っても連れて行く??誰が??
・今回の意味不明駄洒落??用語
「これしか中橋」
「喜三二なもんだねえー」
「言うてもおくれな小夜嵐」
「大通」
今季はテンポがとてもいいですねえー。長丁場、毎回毎回、このペースで事件乗り越えてくのは脚本、大変だろうなあー。合戦も調略も無しだもんな。
しかも、史実、現物の裏付けがあるのが凄い。やっぱ本州は残ってるんだね。
かな?
♡・・*・・♡・・*・・♡・・*・・♡・・*・・♡・・*・・♡・・*・・♡・・*
徳川吉宗はテレビドラマの影響で、爽やかな好青年、絵に描いた様な名君というイメージですが(暴れん坊将軍は私も大好きですが)、実際は結構利己的な人物だと思います。
まぁ、暗君ではないですけどね。
ただ、文句なしの名君か? と言ったら正直「?」です。
名君と言える部分は勿論否定しませんが、享保の改革って結局失敗していると思いますし。
さて、元々将軍家に後継が絶えた場合のバックアップとして存在する「御三家」ですが、吉宗は尾張の徳川継友との将軍後継争いに勝利して将軍となったわけですが、その為自分の後に尾張出身の将軍が出る事を疎んじ、それを防ぐために「御三卿(正確にはそのうちの田安と一橋の二家)」を設立させたと言って良いです。
神君家康公と言えども、やはり現役将軍の方が決定力は強かったのでしょうね。
「御三家」も中々直系で繋がらず養子で繋いでいる、という現実的な問題もあったのだろうとは思いますが、最大の動機は吉宗の血統から後の将軍を出したい、という我欲だと思います。
「御三家」はいわゆる将軍家の分家なので徳川姓です。
「御三卿」は将軍家の部屋住みの家なので、将軍家の身内。ですから姓も徳川になります。
家康が松平から徳川に姓を変えてからは、松平は臣下に与える姓となっています。
ですから、部屋住みである「御三卿」は徳川姓なんです。
「江戸城外堀図を見ましたあー。
これぜーんぶ、家康一代ででしたっけ。
しかも合戦で機能したこと、あったっけ・・・。
そりゃあ、御三卿一族くらい、内側に住まわせられますよねー。
いま、地価合計いくらだあーー。
いま、拝見しました! どうもありがとうございました!!
ううううーん。
「御三家」と「御三卿」は徳川姓です。
松平は臣下なので、松平姓の「御三卿」は絶対有り得ませんのでお間違いなく。
ここが引っかかって、前へ進めませーん。
御三家は、舞台の東京から遠い各県にいる、姓が「徳川」の一族たち
御三卿は、東京城内の領地無しの一族で、姓は???、徳川???
で、悩んでいます。
前回もご解説は頂きましたが、大権現が決めた、御三家のバックアップのルールを、吉宗の一存で御三家無視の、吉宗以下の血筋重視の御三卿ルールへの変更は、しっくりきてません。
吉宗も御三家出身??幕末には水戸が再活躍してたし。誰かが軌道修正したか?
賢丸の兄定国を養子にした伊予松山藩が、帝鑑間から溜間に昇格した前例があるので、同じことを狙ったんですね。
賢丸の兄で田安家当主の田安治察(はるあき)は、兄四人が早世した為に当主になった人物ですが、治察自身も病弱で、おまけに頭の出来も今一つ、という人物でした。
だからこそ、賢丸君が大いに期待されていたのですが、白河藩に養子に入ってしまったわけで。
治察の死は、養子の件が決まった半年後。
治察には子が無いので、賢丸の養子の件を白紙に戻して田安家の相続を願い出たものの却下され、田安家は14年もの間無当主の状態で置かれた末に、一橋治済の五男斉匡(なりまさ/家斉の弟)が相続する事になります。
一橋家大勝利。
治察の死の原因は明らかになってはいませんが、状況的には…限りなく黒に近いグレーですね、橋治済は。
吉原で稼げなくなった遊女が、地方に言葉は悪いですが転売される事はままある事でした。
幾らで売られていったのかは分かりませんが、見世(遊女屋の事)の方も売れない遊女を抱えてはおけない、という事でしょう。
転売された遊女の扱いは、確実に悪くなります。
吉原の最低ランクの遊女屋である河岸見世(かしみせ)と地方の遊郭(ドラマでは越後?)では、どちらがましなのか判断できませんけど。
連れて行くのは、多分女衒ではないですかね?
1000年前が舞台の「光る君へ」と250年前の「べらぼう」では、残っている資料の量も質も段違いでしょうね。
750年の差は大きいです。
それでも「光る君へ」は主役の紫式部については謎が多くても、準主役(と言うか、殆ど主人公格だった様な?)は成功者藤原道長でしたので、資料はまだ残されている方だったでしょう。
江戸っ子は駄洒落大好きですし、特に「べらぼう」の時代は駄洒落大ブームでしたので、今後も沢山登場すると思います。
江戸っ子の粋な言葉遊びですので。
ところで、一度江戸城外堀図あたりを検索してみることをお勧めします。
現代の地図と照らし合わせると、日本最大の城郭である江戸城がいかに巨大だったかを実感できます。
田安も一橋も清水も、江戸城周りの地名ではなく江戸城内です、それも外堀の内側ではなく内堀の内側になりますね。
水戸・紀伊・尾張は現在の茨城県・和歌山県・愛知県に相当します。
改めまして分かる範囲での解説を…
ドラマの時系列では、「一目千本」が刊行されているので1774年の筈です。
この時点では、将軍家治の嫡男家基は健在です。
ただし、嫡男は健在でも「お控え」要するに嫡男に何かあった場合のスペアとなる次男以降が不在です。
一応次男はいたのですが、生後三カ月で夭折していますので。
このような状況ですので、実は田安賢丸は家基に何かあった場合の次期将軍後継候補の一人です。
候補はもう一人いて、それが一橋豊千代で、ドラマで生田斗真さんが演じる一橋治済(はるさだ)の長男です。
年齢的には賢丸の方が上なので、こちらの方が候補として有力だった筈。
聡明さで知られてましたし。
将軍後継云々を抜きにしても田安家が賢丸を他家に養子に出さず田安家に置いているのも、田安家の家督を継いだ兄治察(はるあき)に子が無いため、田安家においても最有力の後継候補であるためです。
そこに降って湧いた白河藩久松松平家への養子の話は、田安家にとっては受け入れがたい迷惑至極の話だったでしょうね。
「御三家」と「御三卿」は徳川姓です。
松平は臣下なので、松平姓の「御三卿」は絶対有り得ませんのでお間違いなく。
「御三卿」の残る一家の清水家(正確には清水徳川家)には、将軍後継候補になれる子がいないので、多分ドラマには出てきていないと思います。出ていても影は薄いのでは…
養子の話を出して来た白河藩久松松平家とはどんな家か、と言えば。
徳川家康の実母於大の方が家康の父松平広忠と離縁した後再嫁した久松俊勝(「どうする~」ではリリーフランキーさんが演じてました)との間に産んだ息子たちの内の、三男である定勝の息子定綱を祖とする家です。家康の血縁者として松平姓を許された家門なので、御家門の大名家として一応幕府内で特別扱いをされていました。他にも越前松平家とか会津松平家とか同様の家がありますけどね。
ただ、幕府が大名のランク付けに利用していた殿席(でんせき/伺候席とも言う、江戸城内における大名の控室のこと)は、久松松平家は帝鑑間席詰(ていかんのませきづめ)で、殿席の格としては上から4番目。譜代大名は概ね此処なので譜代席とも言います。
賢丸を養子に臨んだ久松松平家の定邦(さだくに)は、なんとか一つ上の溜間詰(たまりのまづめ/臣下に与えられた最高ランク)に上がりたくて、
み、みんな、江戸城まわりの地名 ってことだったんですね・・・。
千代田区内のもめ事だったとは。
水戸・紀伊・尾張は離れた県ってことでいいはずですよね・・・。
取り急ぎ間違いを訂正させていただきます。
御三卿の田安、一ツ橋、清水は『田安=福島、一橋=東京、清水=静岡』とは一切関係ありません。
田安家は江戸城田安門の側、一ツ橋家は一ツ橋門の側、清水家は清水門の側にそれぞれ屋敷があった為に呼ばれる様になったものです。
また、御三卿の家から幕閣は出ていないと思います。
現時点で老中首座の松平武元は越智松平家です。他の老中も松平姓ですが、御三卿の家とは関係ありません。