Nicotto Town



どっち?③


第三章

芙美は、家の玄関を静かに閉めると、そのまま足を引きずるようにして自分の部屋に向かった。ドアを開けた瞬間、いつもは安らぎを感じるはずの部屋が、今日はやけに広く、冷たく感じられた。淡い春の日差しがカーテンの隙間から差し込み、芙美の頬を静かに照らす。その光の温もりが、かえって彼女の心の寒さを強調していた。

部屋の中央に立ち尽くすと、突然押し寄せた感情の波に耐えきれず、芙美はその場に崩れ落ちた。失ったものの大きさが、胸を強く締め付ける。幸次郎との思い出が頭の中で次々と蘇り、その一つ一つが彼女の心を苦しめた。芙美は自分から別れを告げたはずだった。しかし、それは決して簡単な選択ではなかったことを、今さらながらに痛感していた。

涙が止まらなかった。幸次郎の愛の大きさ、そして彼が最後まで何も言わずに彼女の決断を受け入れた、その静かな愛の重さが、芙美の心を締め付け続けた。何も言わなかった幸次郎の表情、言葉にならない痛みが、目を閉じるたびに鮮明に浮かび上がる。まるでその場に彼がいるかのような錯覚さえ覚えるほどだった。

自分が決めた別れなのに、まるで振られたかのような喪失感に苛まれていた。幸次郎との日々がどれほど大切だったか、どれほど自分を支えてくれていたのかを、今になって強く実感する。彼の愛が自分の中で大きく育っていたことに、気づかなかったわけではなかったが、もうその愛に甘えることは許されないのだ。

泣きながら、芙美は机の上に置かれたスマホを手に取った。画面には、何度も確認しては削除した伸行へのメッセージが表示されていた。「妊娠しました、結婚の準備を進めましょう」と打ち込んだ文字が、冷たく彼女を見つめている。しかし、送信ボタンを押す手は重く、どうしても動かなかった。

今はとてもそんな状態ではない。幸次郎を失った痛みと後悔で胸がいっぱいで、未来を語る言葉が見つからなかった。芙美はスマホをそっと伏せると、両手で顔を覆い、声を殺して泣き続けた。部屋には、ただ春の風に揺れるカーテンの音だけが虚しく響いていた。芙美の心は、春の嵐山のように美しくも儚く、そして痛ましい別れの記憶に覆われていた。


幸次郎は家に帰ると、真っ直ぐ浴室へ向かい、シャワーの蛇口をひねった。熱いお湯が頭から勢いよく流れ落ちる。湯気が狭い空間を満たし、幸次郎はその蒸気の中で目を閉じた。芙美の別れ話が、何度も頭の中で繰り返されるが、どれだけ考えても答えは見つからない。それならばと、無理に整理することをやめ、ただ湯の流れに身を任せた。

気がつくと、彼の頬には涙が溢れていた。お湯と混じり合い、涙の温かささえも感じられない。芙美の言葉が胸に刺さる。「私、大学卒業したら結婚するの」その言葉が彼の頭の中で反響し、まるで夢から覚めない悪夢のようだった。過去の二人の思い出が次々と蘇り、心を締め付ける。芙美が大学を卒業する前にバイトを辞めた時の寂しさも、確かにあった。でも、今回の別れはその比ではない。彼女のいない世界が、これほどまでに孤独だとは思わなかった。

「結婚…一体誰と?」疑問が次々と湧き上がり、虚しさが胸に広がる。自分に非があったわけでもなく、芙美は誰か他の男の元へと去っていく。それを理解することができず、頭の中でいくら問いかけても、答えは虚空に吸い込まれていくばかりだった。

幸次郎は、シャワーの水音で思考をかき消すように、熱い湯を浴び続けた。水滴が身体を伝い、虚しさを流してくれるような気がしたが、心の中の痛みだけは消えることなく残った。時間の感覚も曖昧なまま、彼はようやくシャワーを止め、濡れた髪をタオルで拭いながら浴室を出た。

部屋に戻ると、英語の教材を無造作に手に取り、イヤホンを耳に差し込んだ。虚しさを振り払うように、英語のリスニングを再生する。流れてくるネイティブの英語の声は速く、無機質で、感情を挟む余地もない。集中しようとするが、頭の片隅には常に芙美の顔が浮かび、心は全く落ち着かない。英単語が一つ一つ空虚に響き、耳を通り過ぎていく。

これで少しでも気を紛らわせることができればと願ったが、現実は彼を冷たく拒むだけだった。幸次郎はイヤホンを外し、深く息を吐いた。心の隙間は埋まることなく、虚しさが重くのしかかる。春の夜風が窓から入り込み、彼の濡れた髪をひんやりと冷やした。幸次郎はそれでも前を見つめ、ただひたすらに今を耐えるしかなかった。





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