なに勝手に死んでんだよ
- カテゴリ:日記
- 2024/09/06 01:15:38
いろいろ書いたけど、ニコタあるあるで、投稿に失敗しましたとさ。
またかよ。
クソ。
でもまあ、そういうことだろう。
そう言う話しなんだろう。
死にやがった。
一緒に酒飲んでたのに。
お前のバイク乗せてもらって。
今度もえーんさんのバイク乗せてくださいよとか言ってたのに、なに死んでんだよ。
33歳だろ、まだ。
芽が出るかどうか知らんけど、大河も出たし、舞台も自分で演出できて、これからだったんじゃないのかよ。
ウチの犬コロ、散歩に連れて行くたびに、お前の家の前でバイクがないなとか、思い出さないとならんのか。
ふざけんな。
日曜日に葬式?
行かねーよ、知るかよ。
戻ってこいよ。
どうぞごゆるりと。
返信は、したいのであれば、したい時に、したい内容ですれば宜しいのかと。
夜分遅くに失礼します^^。
もえーんさんの寛容さに感謝致します。
また、井の中のコアラの稚拙なナニカ、と言うよりは"The☆mess"にお付き合い(ご教示)頂き、深謝致します。
諸般の事情で、お返事させて頂くのにお時間を頂戴出来ましたら幸いです。
(私の病像が心・身共に変化しつつありまして、既存の治療の枠組みの見直し「組み直し」に悪戦苦闘しておりますことが、主因です。)
この下から、順に読んでくださいませ。
読まなくても良いですww
>「それって、ヒトがヒトの感覚器官で得た『情報』をヒトの内言語で『思考』して、導き出した『真実(オイラの場合は「敢えて言えば科学的」な)』だよね、でも、それって、「ホント」なの?
そうですね。遥か太古から続く、存在論的な哲学論考の大本命ですね。
わたしの結論からお伝えすると、その問いを問うこと自体に意味がない、ということになります。
存在するとはどういうことなのか。
存在それそのものとは何か。
事物それ自体とは何か。
デカルトの時代から連綿と続く問いです。
ですが、わたしは先述の通り、その問いを問うこと自体に意味がない、と考えています。
存在それそのものとは何か。
その問いは、人の肉体と精神と、それに司られた意識と言語により発せられるものであり、その問いを問うたその時点で、問い自体が「それそのもの」から外れたところに絡めとられたものであり、それ故にその問い自体に「それそのもの」を問いただし、それそのものを発見する可能性が断たれています。分かり辛いでしょうか。
秋コアラさんの言葉を使って言い換えましょう。
「ヒトがヒトの感覚器官で得た『情報』をヒトの内言語で『思考』して、導き出した」問いは、それが問われた時点で、その問いを問うたものの地平から逃れることが原理的に出来ない時点で、「それって、「ホント」なの?」の解に辿り着く可能性を奪われている、ということです。
ウチの犬コロは、いつも私の目をじっと見て、何かを訴えています。
何かを訴えているというのは私の解釈でしかありませんので、実際は訴えていないのかもしれません。ただ一つ言えることは、犬は決して生理的な反射現象だけで生きてはいないように見受けられるので、おそらく何かを「思考」しています。ただ、その思考方法が我々人類とは異なるので、人に犬の思考は分からないというだけです。
犬の知能は人で言うと3歳児くらいなので、知能は犬よりも人の方が高い、と言う話しがあります。しかしこの捉え方は、知能というものの在り様を、人のそれがこの世界において唯一普遍のものであるという根拠のない断定の上にしか成り立ちません。
NHKとかで、よくやっていますよね。昆虫の驚異の能力、みたいな番組。大概は、昆虫は人と同様の言語は持っていない、だから何も思考していないはずなのに、驚くべき能力での帰巣能力を発揮する、というようなオチです。どうして昆虫は思考していないと断定できるのか。人間の想定する言語に依存した思考とは、全く異なる未知の思考体系を持っていて、それによって彼らなりの思考判断をごく当たり前にしていて、人が「驚異の能力」と言っている事象も、昆虫にとっては「え?そんなのバカでも分かるだろ?」という話しであって、それ以上でもそれ以下でもないのかもしれません。
そうすると「いやいや、例えば蜂はダンスで餌の位置を仲間に知らせるっていうけど、そのダンスに方向があらわされているんだから、見たまんまなんじゃないの?思考とか関係ないでしょ?」と言う話しが出てきそうです。
しかし、じゃあそのダンスに、餌のある方向や距離等の位置関係が表されていると認識し、そして断片的なダンス情報を、どういう思考体系の中で統合して、遥か何キロも先の、ほんの僅かな花の群生の位置として割り出しているのか。
そもそも、昆虫が住む世界は、人とは全く別の世界です。
妙な例を出すようですが、生まれつき耳の聞こえない人は、我々が一般に言うところの「言語」を持っていません。通常の人間の言語とは、発音と不可分であり、発声された音と、その言語が持つ意味を常に一体化させる中で成立します。その一方が完全に欠落した人は、我々と同様の言語を持っていません。
では、生まれつき耳の聞こえない人は、どうやって思考しているのか。それは、聴こえている人には恐らく永遠に理解不能です。ロジックとして検証することは出来ると思いますが、じゃあ同じやり方で思考をせよといわれても、恐らく不可能でしょう。
話を冒頭に戻します。
「そのもの」とは、幻想の中にしかありません。
わたしにとっては熱い料理も、秋コアラさんにとってはやや熱い料理かもしれません。じゃあその料理は、その料理の本性として熱いのか?熱さそれそのものをどう定義することによって、その熱さが人の受容の差分によらず定義できるのか。定量化すれば良いんだから、温度で良いんじゃね?温度そのものは絶対値ですが、それを熱いというか否かは定性的な決めの問題です。というか、いわゆる摂氏などの温度も物理としては絶対値などではありません。
問いとは、その問いを問うものの立つ原理的な地平から離れて問うことは出来ないのです。離れて問えないという事は、離れて解を得ることも出来ません。
21世紀になりハイゼルベルグの不確定性原理は、その量子力学の基本原理としての地位を失いつつあるようです。電子の位置と運動量を測定すると、片方を同定すると片方が可変してしまうため同時に測定できず、その物質としての状態を特定できないという、長年信じられていた大原則なのに。
この世界の真理に近づけば近づくほどに、その深淵の彼方に遠のく霞の中の真実。
人は、いつかその深淵の底に辿り着くことが出来るのかもしれません。
しかし、人はその深淵の底を覗き見てはならない、そう思っています。
人は、神の領域に足を踏み入れてはならないのです。
いえ、面白がっておりますw
削除可、黙殺推奨、拝。
悪いクセが出てしまいました素面なのですが、このクセでつい先日ニコ友さんをまた失ったばかりなのですが。
ヒト(Homo sapiens)は、今現在のところ地球上のほぼ全ての生物(もしくは準じるモノ)の『共通のフォーマット』であるDNA(ウイルス等はRNAの場合も)ベースではあるが、外言語(表出言語)が「ヒトが見た(聞いた、理解した)=【see】)ところ)」生物の中で突出して優れている、と表現されます。
オイラが先日カキコさせて頂いたのも同じ『気分』(様々な意味で「確立」されているモノではない、の意です)で、「それって、ヒトがヒトの感覚器官で得た『情報』をヒトの内言語で『思考』して、導き出した『真実(オイラの場合は「敢えて言えば科学的」な)』だよね、でも、それって、「ホント」なの?
という事に近いかと考え・思い・感じ、ます。
全くの想像ですが、ヒトの叡智の蓄積の過程において、様々なジャンル?(哲学だったり、天文学だったり、数学だったり、錬金学(←造語です、術に格下げされていますよね。)で、↑のオイラのような「戯言」の徒が居たハズで、それらがキレイに駆逐されてきているところを見ると、オイラも彼等と同じ妄言の徒だろうとは思っています。
ただ、「ヒトの思考のバイアス」、「ヒトの想像力の限界、もしくは or と言うよりはエア・ポケット」の存在は、ある程度、人の目にも触れつつある気がするのです。
身近なところでは、将棋でAI(というか、プログラム)「ポナンザ」が佐藤天彦名人を破る、とか、Super String Theoryが、正しい、というか(ヒトの)物理学・数学+α「上に」在るとすれば、重力のホログラフィ-原理やホログラフィック宇宙論が導かれ、オイラ達(ヒト)の「空間」や「次元」に関する認識は大幅な修正を強いられる事になるようだ、ということ等です。
その意味で、生とか死が生物に普遍的に観察せれる、また観察、感情を動かされたり、生とか死に遭遇した時に本質的に同じと見なされる動き(行動)をするのも生物に普遍的であったり(仮に)しても、今のところ、それを記述しうるのはヒトだけ、・・・詰まるところ「ヒトだけの」生と死、それって、ホント・・・( ^.^)( -.-)( _ _)zzz...
事故であれば、人の死など一瞬ですからね。数秒前まで普通に生きていた肉体が、ただの肉塊になるのに必要な時間は、1秒くらいでしょう。
その意味であれば、死とは生からは切り離された出来事であり、瞬間の死を時間をかけて生としてあった時間に絡めとりながら、徐々に一体化していくのかと思います。簡単に言ってしまえば死の受け入れということですね。
しかし病気などにより徐々に死に至る場合、死はプロセスであり、絶え間ない連続性の中で生とグラデーションのように交わっていくのだと思います。それは事故の様に事後においての納得ではなく、生から死への移行プロセスそのものを自らに落としこんでいくことです。
何れにおいても、シュレーディンガーの猫を、観測不実行による生死不明の不確定性という哲学的なフォーカスによって、不確定性原理のマジカルな印象部分だけを取り出す物語などとは違い、死は死として厳然と観測されます(量子力学の観測とは、一般生活的な意味での観測ではありませんが)。ただその死を受け止める側が、死を確定したものとして受け入れるグラデーションの期間においては、言語表現としては生と死が重なり合っている曖昧な状態なのかもしれません。ただし、その行きつく先は厳然として死であり、19世紀までの決定論的な一般物理法則のままです。
精神とか心というものの存在や働きは、実は量子力学の世界での出来事なのかもしれません。
何というか、申し訳ない限りなのですが、このブログ【日記】を今初めて拝読しました。
「されば、朝には紅顔ありて、夕には白骨となれる身なり。」、今この瞬間に、隕石が瓦屋根を突き破ってオイラのアタマを貫く(爆散させる?)としても、あるあるではないと思いますが、あって何の不思議もない?
私の聖書には「死は生の対極としてではなく、その一部として存在している。」という一文があります。
或いは、量子力学の世界のように、生と死という「二つの異なる状態は(が)重なり合っている」のかもしれません。
いずれにせよ、彼は去った、残影がもえーんさんの中にあります、今は。
己は何が言いたいんじゃ!!、とシャア猫が通常の猫の3倍のスピードでツッコンできそうですが・・・。
実家が愛媛のやつなんで、そのまま連れて帰れないから、こっちで焼いて、葬儀というかお別れ会というかを近所でやって、それから戻ってまた葬儀らしいです。
せめて葬儀で思いを語って差し上げると良いかと。
物凄く親しかったわけではないんですけど、家も近いし、事あるごとに思い出すことになるんですけど、まあそれはそれかと思いっつ。。。