Nicotto Town


ぴのぴののなんでも日記


『光る君へ 第32回』やっと観終わりました!!


♡・・*・・♡・・*・・♡・・*・・♡・・*・・♡・・*・・♡・・*・・♡・・*・・♡

 みなさんのところは、お米の販売制限は大丈夫ですか?
こちら札幌は、スーパーはひとり10キロ1ふくろまでです。週末、富良野農協まで買い出しに行きましたが、来月末新米が店頭に出回るまでは在庫薄になるとのことでした。
  
 ではやっと「光る君へ 第32回」の考察します

  • ・一条天皇は通算での登場時間はかなり長くなってきたよなあ――。

  • ・「伊周昇殿」という事実は、実態はかなり道長との関係は険悪ということなんだろう。

・伊周の肩書「儀同三司」??って偉い??

・はんにゃは先週に正二位昇進で喜んだんじゃ?今週は従二位に格下げってことかあ。

・赤染衛門が主婦になっている。しかもまひろより首ひとつ背が高いいんだ。

・東宮擁立の策士は誰なんだろう?伊周ではない。道長は両面工作してたんだっけ?

・行成排除で隆家登用の裏に何がある?

・内裏入りシーンは、NHK別ドラマ『大奥』みたいだなあー。いつの世もおんなじみたい。

・「籐式部」?が「紫式部」に変わる?ことのひとエピソードがあるんでしょう????

 伊周の呪詛の効果はこういう出方をしたってことか・・。
いやあそれにしても火事多いよねー。そのたびにどれだけの血税が使われたんだろ。
                      かな?
♡・・*・・♡・・*・・♡・・*・・♡・・*・・♡・・*・・♡・・*・・♡・・*・・♡

 

アバター
2024/09/01 17:06
火災の原因は、失火もあった様ですが大抵は火事場泥棒の為の放火だった様です。当時は屋根も瓦ではなく檜皮葺(ひわだぶき)という樹皮を葺いたもの(瓦葺より檜皮葺の方が格上)でしたので、屋根に放火される、という事も多かった様です。
当時は消防特化の組織(江戸時代の大名火消しや町火消しの様なもの)は存在せず、火事になれば自然消化するまで焼けるに任せるしかありませんでした(小火のうちは検非違使や貴族に雇われた武士団などが消火にあたったらしいです。大貴族の邸には大きな池がありますので、消火用の水には困らなかったとか)。
天皇にしろ貴族にしろ、消火という発想は無く、焼けたものは再建すれば良い、という考え方だったそうです。
実は道長の土御門殿も焼失した事がありますが、その際には全国の受領(国司)が再建用の木材や石材を献上し、有力武士団の棟梁だった源頼光は邸宅の内装・家具調度・衣裳などの一切合切を献上したので、道長は土御門殿再建の為に殆ど懐が痛まなかったと言います。
献上の為に受領たちが領民たちからどれだけ搾取したかは伝わっていませんけど。

1005年の火災では、ドラマでも言っていた様に八咫鏡が焼けて失われました。
銅鏡なので、正確には溶けて金属の塊になってしまったんですね。
道長は再鋳造を提案しましたが(多分陣定で)、他公卿らの賛同を得られず鏡の再鋳造は果たされませんでした。
後の時代にも鏡が再鋳造される事はなく、現在の皇居賢所に保管されている八咫鏡は溶けた金属の塊のままらしいです。
皇居の三種の神器は所謂写し身で、八咫鏡も本体は伊勢神宮に在るからかもしれませんが、天皇陛下の即位の礼で厳かに運ばれていた三種の神器のうちの鏡が金属の塊とは意外です。
アバター
2024/09/01 16:40
特に漢の高祖の皇后呂后の頃とか、唐の則天武后の頃とか、清の西太后の頃とか、怖い逸話がいっぱいで大奥なんぞ目じゃない、という感じですよ。
ちなみに大奥ドラマはNHKのものより、関西テレビ制作の古い作品の方が遥かにドロドロの内容で怖かったらし…ですよ。流石に見てないので直接には知りませんが。

次回からまひろが内裏での局名(つぼねめい)が藤式部になることについてですが、これは史実です。
女房達の局名は、大抵は姓の一部+親兄弟の官職、であることが多いですから、まひろの場合姓の藤原から「藤」、父為時がかつて式部丞(しきぶのじょう)だったことから「式部」となり「藤式部」となります。
紫式部と呼ばれる様になったのは後の時代です。式部の没後といいう可能性もあります。
由来は「源氏物語」の紫の上から。
「源氏物語」が広く読まれる様になってから、藤原公任が「若紫はいずこにおわす」と式部をからかったところ、「若紫なんてどこにもいませんわ」と式部が軽くいなした、という逸話もある様です。

内裏は794年に桓武天皇によって造られて以来960年の村上天皇の時代まで、小さな小火(ぼや)はあったものの内裏が焼け落ちる様な事態になった事は無かったのですが、960年以降は割と頻繁に火災に遭っています。村上天皇3回、円融天皇3回、一条天皇3回くらい。
960年の火災は大火で、韓渡りの神剣「破敵」と「護身」が失われ、再鋳造した際には当時の天文博士賀茂保憲(かものやすのり/安倍晴明の師匠の一人)が御魂入れ(みたまいれ)の儀式を行ったそうです。

一条天皇も999年と1001年、1005年(今回のドラマの分)に内裏の火災に見舞われました。
1005年の火災はドラマ通り皆既月蝕の夜に起こり、この事は道長の御堂関白記、実資の小右記、行成の権記に記載があります。
一条天皇が中宮彰子の手をとって徒歩(かち)で内裏から職曹司、更に朝所(あたいどころ)に脱出したとされています。ドラマはここを史実に忠実に描いてますね。
朝所まで脱出した一条天皇は、数日後道長の土御門殿に移っています。土御門殿は天皇が内裏に住めなくなった際の里内裏として使用されていました。
ところで、天皇が徒歩で逃げなければならなかった事態は異常で、実資などは「お上をお歩かせ奉るとは!」と驚愕した事を自身の日記に記しています。


アバター
2024/09/01 15:53
色々な意味で「持って無い」んですよね、伊周は。
まぁ、しくじりは彼自身の所為ではないのですが(ドラマでは伊周自身が呪詛してますけど)

さて、斉信の昇進の件ですが、正三位(しょうさんみ)から従二位(じゅにい)への昇進です。
正二位(しょうにい)ではありません。
31話び時にNHK+で確認していますので間違いありません。
ですから、正二位に上がってから従二位に降格させられた訳ではありません。

辞表作戦が実資の入れ知恵というのは、多分ドラマオリジナルだと思いますが、実資と公任は同じ小野宮流の従兄弟同士なので、実は史実ということも無くはないです。

赤染衛門は、何度か書いていると思いますが大江匡衡(おおえのまさひら)と結婚しています。子孫には「鎌倉殿~」にも登場した大江広元(おおえのひろもと)がいますし、更に時代が下れば毛利元就に繋がります。
赤染衛門役の凰稀かなめさんは、元宝塚宙組(そらぐみ)のトップ男役だったので長身です。wikiによると身長173cmだそうで、これはヅカの歴代男役スターの中でもトップレベルの長身の筈。
まひろ役の吉高さんも背が低いわけではありませんが、凰稀さんが長身すぎるんですね。
ですが、「風と共に去りぬ」のレッド・バトラー役や「銀英伝」のラインハルト・フォン・ローエングラムを演じられているので、さぞかしカッコよかったろう、と想像に難くありません。

東宮擁立の策士、というのは多分いないと思いますが、東宮の居貞親王自身がそれなりに野心的な人物だった様に思えます。
居貞親王は冷泉天皇の皇子で花山院の弟です。
当時の皇統は冷泉系と円融系があり、本来は冷泉系が嫡流とされていました。円融帝はあくまでも中継ぎの天皇と思われていましたので。
居貞親王も自分こそが皇統の正嫡という自負を持っており、円融系である一条帝には早く退位して欲しい、と内心では思い続けていたかもしれませんね。

行成は別に排除されません。
彼は道長から篤い信頼を寄せられ続けます。
ドラマでは隆家の言に耳を傾ける風の道長ですが、実際は結構警戒していた様ですし。

内裏の後宮は、江戸城大奥より更に恐ろしいところだったかもしれません。
映像化は大奥の方が多いので、どうしてもそちらを思い浮かべてしまいがちになるでしょうけど。
また、内裏の後宮より怖いのが中国皇城の後宮。
アバター
2024/09/01 15:07
こんにちは^^

一条天皇は若くして亡くなりますが、何しろ即位が7歳と若いので、その治世は25年になります。
当然登場時間はながくなりますね。
ちなみに、「帝の御代は長くは続くまい」と言っていた東宮居貞親王は即位して三条天皇となりますが、その在位は一条天皇より遥かに短い5年足らずでしかありません。
冷泉系最後の天皇ですが、冷泉系統の天皇は皆在位が短いです。

一条天皇と道長との関係は、必ずしも良好では無かった、という説はあります。
ただ論拠が、200年ほど後の「愚管抄」(鎌倉殿~の時にはお世話になりました)や「古事談」に書かれている事なので、個人的にはどの程度の信憑性なのか、と思ってはおります。
無論、それらを根拠として道長と一条帝との関係は険悪だった、とする研究者が少なからずおられると思いますが。

一条帝の伊周復権は、道長への権力集中を避け、公卿間のパワーバランスの調整といいう面はあったかも、と思います。
また、当時唯一の皇子である敦康親王に確固たる後ろ盾を作ってやりたいといいう親心もあったかもしれません。
親王は彰子の養子になっていましたので、道長は義祖父として後ろ盾になり得ますが、伊周は親王の伯父ですから、伊周が復権すればより心強い後ろ盾になりえる、という意図があった様に思えます。
まぁ、後々一条帝の配慮を台無しにしてしまうのが伊周クォリティ。彰子が第2・第3皇子を産むことを差し引いても問題を起こしてしまうのが伊周です。

「儀同三司」は、復権後の伊周の官位准大臣(大臣の下で大納言より上)の唐名(からめい)です。
水戸黄門で有名な「黄門」も唐名の一つで、こちらは中納言を指します。
長徳の変で大宰府に流罪になった伊周は、大赦で京に戻ってからは流罪中の官職(名目だけで実権無しでしたが)である太宰権帥(だざいのごんのそち)から、帥殿(そちどの)もしくは前帥殿(さきのそちどの)と呼ばれる事が多く、それが非常に不本意でいやだったらしいんですね。
准大臣に任ぜられてからも、どうも准とつくのが嫌だった様で唐名の「儀同三司」と呼ばれたがったとか。
その為か、母の高階貴子も儀同三司母(ぎどうさんしのはは)と呼ばれたりしています。
地位としては大納言よりは上なので決して低いものではありません。
しくじりがなければ、更に上の地位も狙えたかもしれないんですが…




Copyright © 2024 SMILE-LAB Co., Ltd. All Rights Reserved.