Nicotto Town



仮想劇場『絵筆を手に取る苦痛と快楽』


「もうそろそろ良い返事を聞かせてくれてもいいだろう?」
 悪友がそう言って一冊のクロッキー帖を僕に差し出す。僕は返事を渋りながらも黙ってその一冊を受け取った。

 あれは今年の4月のことだったか。しばらくは納得もないままボー然と時を潰しすごしていた。ようやく重い腰をあげたのは6月に入ったころだったか。
(今更生真面目に依頼絵を描こうなんてたぶんどうにかしてる) そんな独り言をブツブツと呟きながらもなんとかクロッキー帖の20ページほどを描き潰すことができた。
 意欲的にはまだなれない。自分らしさを封じ込めるのにはあまりにも掛け離れた依頼内容だった。
 そんな感じでほぼムリクリに放り出したような作品だったからか依頼主はあまりいい顔をしなかったが、仲介役をかってくれた悪友はそれでもどこか誇らしげに僕という堕落した人間の人となりなんかをペラペラと依頼主にしゃべってくれた。

 それから2か月ほどでクロッキー帖5冊をもう描き潰している。この十数年のうちにここまで意欲的に創造の世界に自分を没頭させたことはない。まるで初めてクレヨンを持たされた幼稚園児のように真っ新な画面に燥いでいる自分に驚いている。
 当初は僕のセンスにはどこか懐疑的だった依頼主も、今では少し気を許してくれたようだ。とてもやりやすくなった。

「やっぱりお前を紹介してよかったわ」市内の公園のベンチで悪友が新しいクロッキー帖を差し出しながらニタリと笑った。僕はその笑みの先にある言葉をどうしても勘繰ってしまう。
(どうせどこかで良い笑いものにされてんだろうな)
 そんな邪気を滲ませながらも僅かばかりの依頼料を受け取り、そしてその場で悪友への借金返済にすべて充てた。悪友は黙ってそれを受け取り、そして静かに缶コーヒーを傾ける。

 どこでこうなってしまったかはわからない。ただ成るべくしてそう成ったのだと僕は考えるようにしている。


キミは何のために筆をとるのか _。
 その問いにある人は名誉のためと答え、またある人は生活のためと答える。
 僕にはいまだ明確な答えはない。過去には名誉のためにキャンバスに向かっていたし、一時は色欲に溺れる手段として絵筆を振るうこともあった。
 今は借金返済のために重い腰を上げているといっていいだろう。そして仲間内ではそれが具合のいい嘲笑の話題になっているらしい。
「アイツら、いちいちがして的外れなんだよ」そんな強がりを一つ吐いて悪友はバスに乗った。

 そう、表現する理由なんてものはそもそもがしてどうだっていいことなのだ。
 肝心なのは毎日ここにこうやって鉛筆を片手に眉間に皺を寄せている僕がいるということそのもので、かっての悪友がそうだったように、かってのアイツらがそうだったように、僕は今になってようやく夢中になって紬ぎ描く日々というものを取り戻すことができたのだ。

(こんなに上等なことは他にはないね)

 悪友を見送る僕の手に新しいクロッキー帖が一冊。まだまだ可能性は止まない。
 過去の栄光よりは今一瞬のための苦楽を求める _。

 つまりはそういうことなんだよ。





 


 
 




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