Nicotto Town



7/24 キラキラと4択

仮想タウンでキラキラを集めました。

2024/07/24
キラキラ
集めた場所 個数
コーデ広場 4
展望広場 7

4択  「お好み焼き


キラキラ  「展望広場」すすきの中

     「コーデ広場」建物 中央 

4択  広島と言えば? → お好み焼き



原爆資料館では?!

あの原爆ドームで一番最初にバウムクーヘンがお披露目されたんだなぁと思うと感慨深い。

原爆ドームして知られているあの建物は1915年に広島県内の物産品を展示・販売する「広島県物産陳列館」という施設だった。
設計はチェコ人の建築家、ヤン・レッツェル。
日本で建築会社をやっていたところに就職したために来日する。
その後独立、原爆ドームとなった「広島県物産陳列館」とはじめする15(40とも)ぐらいの仕事をこなすのだが、第1次世界大戦による不景気で日本の事務所を閉めて帰国する。
チェコの商務官に任命され来日、在日大使館に勤務する。
東京大震災に被災して多くの自分が設計した建物が崩れ落ちたのを目の当たりにしてかなりショックを受けたようだ。

欧州では珍しい「大地震」・・・いや、東京大地震のクラスは日本だってめったにないけど・・・それに対応していない洋館はもろかった。
欧州規格ではなぁ。
日本の地震や湿度には勝てなかったと思う。

私は平地になっている東京のシロクロ写真しかみてないからわからないけど、地震直後は日本が作った木造の家はたっていたのだろうか?
その後の大火事で燃え尽くしたけど。
もしかしたら欧米人は「木の家は燃えるけどレンガ作りの我々の家なら燃えない。火事が怖いとか日本、おくれてるーーーw」って三匹の子豚みたいなことを思っていたのだろうか?
でも確かに燃えたからな。。。。
広域火事ってこわい。

原爆投下でも残った原爆ドームだが、当然のように保存措置がされている。
今のところ5回の改修でボロボロのまま保存しようとしている。
ボロボロだから当然割れている壁は落ちやすくなっているし、レンガだって落ちやすいし、雨水にだってうたれるのだ。
普通にたっている建物だって80年もたてばボロボロになるのに、地表温度は3,000℃に達し、0.8秒後には、前面に衝撃波を伴う秒速440メートル以上の爆風(参考として、気温30℃時の音速は秒速349メートルである)が襲い、350万パスカルという爆風圧(1平方メートルあたりの加重35トン)にさらされたのだ。
どんだけ苛烈だ。

原爆ドームは爆発中心地ではなかったのだが、かなり近かった。
全てが崩れ落ちなかった理由として
1.衝撃波がほぼ真上だった
2.窓が多かったので風が吹き抜けた
3.ドームが銅板をはってあって鉄より融解点が低く、溶け落ちた銅のために爆風が抜けた
というものがあるらしい。

戦後復興の中で、まずバラックをたてて人が暮らし、水道その他インフラが優先される中、建物の取り壊しは後回し。
そのうちバラックが立ち並ぶ高い建物がない地にあの建物はひどく目立ちその頃から「原爆ドーム」と呼ばれていたらしい。
新聞は「みっともないから取り壊そう」という論調を主張したらしいが(当時の新聞はGHQ隷下)、人々は保存に動き今にいたった。

広島と違って原爆の象徴となる建物がない長崎だが、そういうシンボルになるものがなかったのか?というと、ある。
爆心地から500m離れたところに、当時、アジアで最大といわれたカトリック浦上教会があり、こちらもボロボロになりがらも建物としては立っていた。
この建物をどうするか・・・保存か撤去か。
教会の司教が復興資金の願いのためにアメリカにわたった時、復興資金を出す条件として建物の撤去を言われたという。
保存に邁進していた長崎市長は友好のために訪米し、帰国したら撤去推進になっていた。

そう・・・アメリカにとって浦上教会の状態は非常にまずいものだった。
「欧米のキリスト教徒がこれを見たら発狂する!!!!」という理由だ。
お前らがやったことだ、直視せよ、と思うのだが「正義」を謳う国には耐えられないことだったらしい。

そういえばイギリスの義務教育で「世界史」を教えたところ、イギリスのやらかした多々の人道無視に心を痛める子供が続出したため世界史はやらないことにした、という話もあったなぁ。
いやはや。
その罪の上に繁栄を謳歌し、今があるというのに。
そういえばここのところ日本のネットで話題になっている「彌助(織田信長が南蛮使節から譲り受けて家臣にした黒人)紛争」でも「南蛮が護衛としてつれていっていた黒人を信長が奴隷にした!当時日本では黒人奴隷が流行っていた!!」と馬鹿な主張をしているのもイギリス人だったなーー。
シルクロードを通じて黒人奴隷が売り買いされていたらしい。
海運でも死者多数だった黒人奴隷を陸路で運ぶ難しさがわからないとは・・・英国紳士、馬鹿だなぁ。

原爆ドームの設計者ヤン・レッツェルは、東京大震災のあと帰国し病に伏せる。
親族友人とも縁をたって精神病院に入り45歳で死亡する。
チェコで知られた人ではなかったヤン・レッツェルだが、「あの原爆ドームの設計者!」ということで注目されたらしい。

ヤン・レッツェルの写真を見ると、精悍な顔つきに着物を着ていてなかなかにかっこいい。
1925年に死亡しているので、1945年まで生きていたら、焼け野原の中、1つだけ建っている原爆ドームを見ることができたのに・・。
大震災で崩れた建物を見てショックを受けた彼は、一面の焼け野原の中、崩れつつもその全容を残した建物に何を感じたのだろうなぁ。

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2024/07/24 18:42
罪の文化VS恥の文化。




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