Nicotto Town


ぴのぴののなんでも日記


『光る君へ 第28回』の考察ですっ!! 


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 画面で地上波で「光る君へ」をメモ取りながら2回目を観ながら、その横で「ファイターズ前期最終戦9回攻防」をラジオで流しつつ、真ん前のキーボードに向かっています。
「ブラックペアン2」までかかるのかあー??
  
 では「光る君へ 第28回」の考察です

  • ・一帝二后は定子の先例があるよね??なぜ吉田羊は驚くんだろうか??後段のナレーションでもまた言ってる??

  • ・彰子はまだ本性を見せず?・・・。逆に今回1話を通して考えたのは、高度な演技で定子対抗戦略としては「かわいそう路線」で懐に入ることを当初から画策していたのでは?

  • ・道長は、今回もあからさまな「闇落ち」を避け、行成を絶妙のタイミングで末代までのはなグスリが効奏し、行成演説でとどめ刺したか!道長は、憂いて差し出したんだって・・・・。

  • ・今回のユースケばなしもおまけ。

  • ・はたして現存の道長の日記も、黒ベタで修正があるのだろうか?

  • ・定子は「家のための入内」を否定せず。これは伊周復権の伏線となるのか?

・孔明臥龍だけ、わかった。

・再三の道長病気は「心臓病」「糖尿病」?しかしあと20回分くらいは生きててもらわないと・・。父、兄は即、だったのに。松下洸平とニノに頼めば良いのに。

・定子第3子懐妊のこの頃、「枕草子」は既に出回っていて、清少納言は大作家になっているってこと?

・定子、ここで散るかあーーっ!!

・伊周ダークサイド、隆家はなんとか征伐だから道長側、ウイカの動向はいかに?

 次週予告で出版はもう「源氏物語」か?清少納言の最後の地の紀行ってことは、もうこれで退場ってことか?
 為時、松下洸平はどうしてるのかなあー。

                      かな?
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2024/07/27 16:17
定子が亡くなった後の清少納言は、再婚相手の任地である摂津国に移りますが、ドラマでどうなるのかはちょっと予想できません。
一度くらいはまひろに会いに行きそうな気もしますが、その頃にはまひろも宣孝を失って落ち込んでいそうな気もします。

次回予告で出た和綴じの本は、源氏物語にはまだ少し早い気がするので「枕草子」ではないか、と思っています。
「枕草子」が読まれることで定子の評価が上がる筈ですし。
それに対抗するための「源氏物語」の筈。
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2024/07/27 16:09
王戎肝要 裴楷精通 孔明臥竜 は、中国の説話集「蒙求」に収められた説話です。
ドラマではまひろが賢子に読み聞かせているだけではく、明子が子供たちに蒙求を唱和させていましたし、「光る君へ」第一話では為時が息子の太郎(後の惟規)に読んで聞かせてました。太郎は全く関心を持ちませんでしたが、掃除をしながら聞いていた幼かった頃のまひろがスラスラと諳んじてましたよね。

史実の道長はこの時期重病になり、辞表を提出しまだ幼い息子の事を行成に託すなどしており、病状は重篤だったと思われます。
病気の原因は呪詛と記録されています。
実際の所は、オーバーワークとストレスだと思われますが、記録の上では呪詛です。
次回予告の伊周の呪詛シーンは、この記録が元ネタかもしれません。
道長が亡くなるのは60過ぎで余命はまだ20年以上ありますから、糖尿病が死因でもまだ極端に悪化はしていないと思われます。
演じている柄本さんが何を想定して演技されたのかはわかりませんが、個人的には重度の貧血をイメージしました。

28話ラストで定子が崩御。
ネット上では
展開早過ぎ、という声もありますが、つわりが酷くて食欲が落ち体力も落ちている、という描写はしっかりありましたので(清少納言が定子にお菓子の青ざしを勧めているシーン。つわりのせいで食が細くなった定子に、これなら食べられるかも、と供したのが青ざしで、「枕草子」にも記述があります)、定子の死を突然とは思いませんでした。
第3子出産後に亡くなる歴史上の事実を知っているからでもありますけど。

定子の死因は、出産後に後産が下りなかったから、と記録にあります。
後産が下りないとは、出産後に不要となった胎盤や卵膜が子宮から排出されない状態の事で、大出血を引き起こしたりする事もあるので非常に危険です。
現代でも最悪の場合は外科的処置が必要になるほどです。
医療が発達する以前は、この後産が下りないことで亡くなる妊婦は少なくありませんでした。
定子の場合、第2子の敦康親王の出産から第3子媄子内親王出産までの期間が短く、第2子主産のダメージから完全回復する以前に第3子を妊娠出産する事になった事も亡くなった遠因ではないか、と個人的に疑っています。
一条天皇としては、続けて皇子が生まれれば定子の立場が強化されると思ったのかもしれませんが、それが仇となったのかもしれません。
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2024/07/27 15:25
太宗死後に出家しますが、一年ほどで太宗の息子高宗の後宮に入って寵愛されるようになり、やがて高宗に変わって政治を壟断するようになり高宗の死後は自身が帝位に就き一時的にとはいえ唐を滅ぼす事になります。
武則天はライバルを惨殺するような怖い女性なので定子とは似ても似つかない筈ですが、出家して尚帝に侍っている、その一点を以て定子は武則天になぞらえられてしまったのは気の毒ではあります。
それだけ異例で不吉と思われたのでしょう。

彰子は別に可哀想路線で一条天皇の懐に入る事を画策していたわけではなく、あまり自己主張をしない彼女がひたすら真面目に一条天皇と接していただけだと思います。
笛は聞くものだと思っているから、真面目に一生懸命帝が吹いてくれる笛を聞いていただけ。
実際の所はわかりませんが、後の女房として出仕した紫式部にこっそり白楽天の新楽府を講義してもらったりしていますので、真面目な人だった事は確かだと思います。

彰子が生贄の姫なのはあくまでも「光る君へ」オリジナル設定ですから、実際は自身と家の権勢の為に道長は娘を入内させた筈です。
というか、それが当時の上級貴族の常識ですから、特に彼だけが強欲な訳ではありません。
彰子入内を急いだのは、やはり定子と言う化け物級の后がいたからでしょうね。
定子一条天皇から寵愛され続け、皇子が立て続けに生まれたとしたら中関白家の復活が現実的になる、という焦りはあった筈。
その焦りが、数え12歳(満11歳…現代なら小5)という史上最年少(それまでは定子の14歳が最年少記録)での入内、ひいては前例の無い一帝二后に繋がったのでしょう。

道長が日記の一部を墨で黒く塗り潰したのは本当です。
御堂関白記は原文が全て現存しており、1000年正月十日の記事は、複数行が黒く塗り潰されているそうです。

伊周復権は、定子が亡くなる事がなければ果たされたかもしれませんし、定子が産んだ敦康親王が東宮となり即位できれば新天皇の伯父として権力の座に返り咲けたかもしれませんが、実際は復権することなく(道長の口添えで准大臣までは戻れましたが。大納言より上、大臣より下、という地位)父道隆よりも若くして亡くなります。死因は明らかではありませんが失意の末の死であった事は確かでしょう。
次回予告で伊周が道長を呪詛してましたが、あれは流石にドラマ上のフィクションかと。
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2024/07/27 14:29
こんにちは^^

一帝二后は一条天皇に定子と彰子という皇后と中宮が誕生したのが初で先例はありません。
ただ、定子の父藤原道隆が定子を立后させる為、太上皇太后・皇太后・皇后(別名が中宮)という三后だけだった天皇家の后を、皇后と中宮は別存在にするという強引な手段で四后にしてしまった事で、一帝二后への道が開けてしまった、とも言えます。
これがなければ、さしもの道長も一帝二后を強引に推し進める事は困難を伴ったでしょう。
史実の道長は、ドラマほど清廉ではなかったと思われますが、先例を全無視で公卿達の反感を買いまくって迄強引に物事を推し進めるタイプではなかった様ですので。
割と周囲に気を遣う…というか周囲の評価を気にしまくるタイプ。
公卿の反感を買うと碌なことにならない事を、兄道隆や甥伊周の例で学んでいたのかも。

一帝二后が成立したのは、中宮の定子が当時実質的に中宮として機能していなかった点も大きいです。
ドラマで行成が一条天皇を強い言葉で諫言していた様に、出家した定子は天皇家が行わねばならない神事を行えませんでした。特に藤原氏の后が藤原氏の氏神を祀る春日大社の京都の分社大原野神社の神事を行えない事が問題で、定子が出来ない為道長が代理で行っていたと言われています。
后が行う重要な神事を行わず、それでいて中宮用の封戸(古代日本の給与制度の一つ)は以前と変わらず割り当てられていました。
定子を寵愛する一条天皇の計らいだったらしいですが、それも公卿からみれば仕事もせずに給与だけ受け取っている、と見えた事でしょう。言葉は悪いですが要は給料泥棒です。
天災も続いてましたし(鴨川は再度氾濫してます)、中宮が神事を行っていない所為だ、と当時の人は本気で思っていたかもしれません。
999年に内裏が火災で焼失していて、ドラマ時点で一条天皇は一条院(元は藤原為光の邸宅。花山法皇と伊周がバッティングしてしまった所。寝殿の上と呼ばれる、伊周が通っていた為光の三の姫に相続された後諸々あって女院詮子に献上され、一条天皇の里内裏(仮内裏の様なもの)になりました)に暮らしていましたが、この火災も出家した中宮が天皇に侍っている所為だ、という噂が立った程。
噂の元は赤染衛門の夫大江匡衡で、彼は定子を唐の武則天になぞらえました。武則天は唐の二代皇帝太宗の才人(皇帝の妻の位の一つ、各としては中くらい)で




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