Nicotto Town


しだれ桜❧


刻の流れー138

東野 紀子は今日一日休暇を取っていた。
もっとも、倶楽部はここ数日開店休業の状態なので、彼女が休暇をとってもどうということはない。
彼女は40代なかば、いわゆるオールドミスで、いつも黒っぽい飾り気のないスーツをまとい、長い髪をぴっちり後ろに引きつめるように束ねている。
黒ぶちのメガネと地味な化粧。
情報部秘書として倶楽部に勤めて20年になる。
仕事は出来るが、それ以外に何の魅力もない女として通っていた。
その彼女が、今日は藤色のジョーゼットのワンピースを着ている。
その裾が、風に揺れて涼しげだ。
優しいウエーブの長い髪が縁取る小さな顔は化粧もいつもより念入りで、メガネもしていない。
忙しげに行き来する乗客が、時々彼女の上品な美しさに歩を緩める。
あわただしいホームにあって、彼女の周りだけ時間が止まっている様だった。
彼女は東京駅のホームにもう半時間も前から佇んで、西から来る列車を見守っていた。
列車が入ってくるたびに首を伸ばして列車の中を熱心に確かめている。
『ウ~~ン キュ~~~~ッ』
何台目かの列車が目の前に止まった。
ドアが開いてサラリーマンの波が降りてくる。
その一人一人を目で追っていた女は最後のほうに降りてきた男の顔を認めると破顔した。
男はこの暑いのにきちっと品のいいスーツを着こなし小旅行用のかばんを右手に持っている。
男の方もすぐに女に気付いて、目配せをした。
しかし、それだけだった。
男は声も掛けず女の前を通り過ぎてどんどん改札へ向かって歩いていく。
紀子は、別にがっかりした風でもなく、男の背中に従って歩いた。
駅を出ると、男はタクシーを拾った。
男が乗り込んだ後に、女も続いて隣に静かに座る。
男が行き先を告げた。車がすべるように動き出すと、男はポケットから小さな包みを出してきた。
「絵は?」
「部屋においてあります。」
「ご苦労だった。」
短い労いの声をかけ、その包みを女に渡す。
女はそれをさも大事そうに受取り、膝の上に置いた。
二人はそれ以上、何も話さない。
運転手がルームミラーでちらりと後ろを見た。
男はサングラスで顔がよく解らないし、女もうつむいている。
少々年配のカップルだが、夫婦ではないようだ。恋人同士だろうか?それにしてはよそよそしいな・・・
「東京見物ですか?お客さん・・・」
「・・・」
運転手の問いに誰も応える事なく、車は目的地に向かって走り続けていった。

ホテルの8階の窓からは東京湾が霞の向こうに見える。
部屋に入るとすぐに、紀子はクロゼットを開けて大きなバッグを出してきた。
「『猫を抱く少女』です」
といいながら、テーブルの上におく。
窓から外を眺めていた男が振り向いた。
ようやく外したサングラスの下から紀子を見つめる男の顔が現れる。
それは、神戸の社交クラブのマネージャーであり、紀子が20年以上愛し続けてきた、梶その人だった。
「随分になるな」
梶が言った。
紀子は頷いた。
前に会ってから、一年近くになる。
「辛いか?」
紀子はじっと黙って男の目を見つめた。
今日まで全身全霊で愛し続けてきた暗い瞳がそこにあった。
時々電話で話す以外は、年に一度か二度会えるだけだ。
会えないのは確かに辛い。
しかしその悲しみや寂しさがこの瞳で見つめられるとたちまち溶けてなくなっていく。
「こうやってお会いできるだけでも幸せですから」
紀子はそういってうつむいた。
「元気か?少し痩せたな・・・」
梶がその顔を覗き込むように聞く。
それがこの男にとって出来る限りの心遣いだ。
「あけてみるといい」
女が応えないでいると、梶ががタクシーで渡した箱に目を移した。
それは、鏡台の上に忘れられたように置かれていた。
紀子が紙箱の中からベルベットの小さな宝石箱を取り出して蓋を開ける。
中に金で縁取りをしたカメオのブローチが納められていた。
「イタリアの職人に作らせた。君にこそ相応しい。」
繊細な彫刻の施されたブローチが、掌で美しく光った。
「・・・。」
礼を言おうと頭を上げた紀子の唇を梶が奪った。

心地よい疲労の中で、紀子は男の背中をぼんやり見つめていた。
張りとつやを失ったその背中はそれだけの年月の長さを物語っている。
「わたしたち・・・もう若くはないのに・・・」
紀子は、心の中で寂しくつぶやいた。
梶は、紀子が持ってきた絵を開梱している。
『猫を抱く少女』
このフランスの印象派巨匠は少女の絵を何枚も描いている。
紀子はその汚れを知らない美しい少女達の表情が好きでもあり、憎くもあった。
少女達には、自分にはない若さと清らかさがある。
そして、梶はそれをこよなく愛している。
絵の中の少女達に嫉妬している自分が時に憐れに思われるのだ。
「すばらしい絵だ。」
梶は同じセリフを何度もくりかえした。
やがて、満足したように、絵を元通り梱包し、立ち上がった。
「口座に十分な金を入れておいた。もう倶楽部は辞めるといい。」
クロゼットから上着を出し、袖を通しながら梶が言う。
「でも、それでは倶楽部の情報は・・・」
ベッドから上半身を起こし、紀子が聞く。
「犬飼たちが横浜の事を文字にすると、倶楽部はかなりの痛手を受ける。逮捕者も出るだろう。当分の間、神戸の店どころではなくなる。」
倶楽部の情報を流す事で17年間二人は繋がっていたのだ。それが無用となると・・・
見る見るうちに、女の両目に涙が溢れる。
「・・・神戸に来いと、言って下さらないんですね。」
蚊の鳴くような声でつぶやいた。
男は女の涙に気付かない振りをして、続けた。
「ああ、君も、横浜を離れられないだろう・・・」
それは、質問ではなかった。
「ホテルはチェックアウトしておく。」
梶は、絵を右手に持ち、紀子に背を向けた。
涙を流れるに任せ、それでも、紀子は嗚咽を漏らさないよう懸命に堪えていた。
お金も、カメオのブローチも何も要らない。私が欲しいものは・・・
すがり付いて、大声で泣きたい。こんな状況にあっても、醜態をさらすまいとする自分自身が恨めしかった。

涙に濡れる女をひとり残し、梶は静かに部屋を後にした。





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