刻の流れー136
- カテゴリ:自作小説
- 2023/09/18 23:30:27
門前のトラック事故の報告が倶楽部から神戸の田中に届いたのは夜も白々明けの頃だった。さすがに、紐育クラブ自体の騒ぎは収まってはいたが、間の悪い事に、田中の元には客からの苦情の方が昨夜のうちに届いていた。
「どうもこうもない! 馬鹿もんがぁ・・・」
電話口の向こうで怒鳴られているのは、田中の代理を任された黒服で、しきりに頭を下げているようだ。田中に神戸まで同行した秘書は横で心配そうに首を竦めている。
「警察と新聞社は抑えたのだろうな?」
「もちろんです。トラック事故の記事が小さく出ただけで・・・」
何とか返事だけは返している代理支配人だが、だんだんその声が小さくなっていく。
「裏口からこそこそ出されたと苦情がきたぞ!」
消防隊やら、野次馬やらと明け方近くまで倶楽部の前に人目があり、客は裏門から引き取ってもらったのだ。
「正門は封鎖するしか・・・でもお客様には・・・」
黒服は、言い訳を並べる。消防隊や野次馬を門前にたむろさせた事自体が不手際なのだが黒服はそこに気付かない。
『こんな時に石橋や梶なら・・・』
17年も前に手放した部下の重要性に田中はいまさらながら舌打ちをしたが、覆水盆にかえらずだ。
「石橋を呼んでこい」
受話器を置くや、秘書にそう命じた。
「支配人、おはようございます」
石橋は、無表情に挨拶をした。
「少々、横浜を空けすぎたようだ。今日戻る」
田中は不機嫌そうに言った。この男が神戸をうろうろするのがそろそろ目の上のこぶになっていた石橋にすればこれは渡りに船だった。店の改修もほぼ終わり、明晩には開店する予定だ。そうすれば一刻も早く勝見をとおして、シュルツをラ・パルフェに迎えたいとやきもきしていたのだ。
「左様ですか。ではすぐに原田に送らせましょう」
小躍りしたい内心を隠して、石橋は、原田を呼んだ。
しばらくすると原田が田中の部屋をノックをする。部屋に入った原田は田中の顔を見て、『不機嫌が苦虫を噛み潰した』とはこのことだと思った。
「支配人を新神戸までお送りしてくれ」
石橋が言う。
「先に来ていた本田たちに連絡がつかん・・・」
田中が思い出したように言った。
「ああ、本田殿なら、確か昨夜ターゲットを追って六甲へ移動すると聞きましたが」
原田が説明した。これは、あながち作り話ではない。
「なに?あいつら、報告を怠りおって・・・」
田中は顔を赤くした。本田たちが報告できなかったのは昨夜の事故で、3人そろって入院しているからなのだが原田は何も言わない。ただ頭を下げた。
原田がすぐに電話で席の手配をしている間に秘書はあわただしく荷物を纏める。それを尻目に、
「梶はまだもどらんのか?」
田中がイライラした様子で聞いた。
「明朝イタリアから帰国する事になっています」
6日前から新しいシャンデリアの買い付けにヨーロッパに行っている。
「何か伝えておきましょうか?」
田中が口の中でブツブツ言っているのを見て、石橋が聞いた、
「いや、いい」
眉間にしわを寄せたまま、田中は原田に促されて、部屋を出て行った。
原田が客人たちを丁重に車まで案内すると石橋が車寄せまで出てきていて田中を送り出す。
「交通事故ぐらい、部下にお任せになればよいでしょうに」
田中に信頼できる部下がただの一人もいない事を知っての石橋の言い様に
「お前のところもせいぜい『部下』には気をつけることだ」
田中は吐き捨てるようにそう言うと車に乗り込んだ。
田中が必要以上に今回の『門前の交通事故』を気にかけるのには理由があった。度重なる情報部の失態、暗躍するルポライター、その挙句に普段は大型トラックなど通らない道での交通事故。それが自分の不在中に起こったのは、ただの偶然か?本当に単なる交通事故ならいいのだが、支配人はそこになにか作為的な物を感じるのだ。
田中は新幹線の中の約3時間をほとんど立ちっ放しで電話に費やした。倶楽部のまん前で事故を起こしたトラックは、盗難車で運転手は見つかっていない。そもそも、事故だったのか、故意だったのかさえ判明していない。六甲に移動したという本田からは、未だになしのつぶてだ。隊長の豊田を怒鳴りつけても、例のルポライターがどうなったのかはっきりせず、現在追跡中というばかりだ。そもそも、ルポライターは本当に六甲、いや、神戸周辺にいるのか?不安因子はいくらでも出てくる。調子のいいときは気づかないことも今は大きくクローズアップされてくるのだ。
それにしても、情報室は対応が遅い、どこまで掴んでいるのか?田中はその見極めができないでいる。
「なにをやっているのだ?」
それは、今まで自分自身が次から次へとトップを抹殺してきたツケであるのに、田中は口の中で悪態をつく。
「例のルポライターが組んでいる出版社は解っているのか?」
情報部の現室長を電話口に呼び出した田中が、煮え切らない相手に声を荒げて問いただした。
「はい、それは・・・」
「ばかもんがぁ!」
田中がまた怒鳴った。はっきり判っているならさっさと資料もろとも燃やせばいいのだ。田中は即決した。
「出版社はただちに始末しろ!」
語気を荒げてそう指示を出すと、田中は受話器をたたきつけるようにフックに戻した。いったん座席に戻り、考え込む。もうすぐ横浜だ。
「役立たずどもめが・・・」
ここまで順風満帆だったがこの躓きがどうなるか?一刻も早く執務室に戻らねばならない。窓の外の景色が飛ぶように後ろに流れていく。田中にしてみれば自分を取り残して、時間だけが慌しく過ぎていくようだった。
その同じ時の歩みを石橋はカタツムリの様にノロノロと感じていた。一日も早くシュルツを捕えたいという、逸る気持ちを抑えられない。
「もどりました」
新神戸駅まで田中とその秘書を送った原田が早々に引き返してきて報告した。
「梶の便は明朝何時に着くのだ?」
「たしか、関西空港に朝9時ごろだったですね」
自分が空港まで迎えに行くのだという。石橋にしても梶のいないのが痛いところだが、横浜でなにやら騒ぎが起きてくれて、とりあえずは『対岸の火事』で時間が稼げそうだ。
「当座は勝見とシュルツからは少し目が離れるだろう」
石橋はラペルピンに手を当てながらそう呟いた。
田中は新幹線の中の約2時間半はほとんどたちっ放しで電話に費やされた。
例のルポライターもどうなったのか本田とも連絡もつかない。不安因子はいくらでも出てくる。調子のいいときは気づかないことも今は大きくクローズアップされる。
「ルポライターはどこの出版社と組んでいたんだ?」
電話で問いただしている。
情報室は対応が遅い、どこまで掴んでいるのか?田中はその見極めができないでいる。はっきり判っているならさっさと資料もろとも燃やせばいいのだ。田中は即決した。
「出版社は始末しろ!」
語気を荒げてそう指示を出すといったん座席に戻り考え込んだ。もうすぐ横浜だ。
「この分だと後手後手に回るな。 くそっ 」
ここまで順風満帆だったがこの躓きがどうなるか?一刻も早く執務室に戻りたかった。
漸く新幹線は横浜駅に着いた。秘書が迎えのものを探していると
「おやっ あれは梶?」
田中が気付いていない事をいいことにそのまま記憶の奥に押しやった。今は藪を突付いてはいけないと本能的に感じたのだ。田中のワンマンの悪いところがここでも出ている。