刻の流れー134
- カテゴリ:自作小説
- 2023/09/11 23:35:33
「内田 ひろみは今朝、新神戸駅からひかりに乗せた」
10時きっかりにかかってきた電話で、開口一番『3110』が言った。
これには、犬飼のほうが逆に驚いた。
「絵の確認をしなくてもいいのかい?」
と、言う始末だ。
『3110』はくくっと笑った。
「今、手元に持っていらっしゃるかな?」
「もちろんだ」
大事な身代金をガレージにおいてくるはずがない。
「昨夜、あなたが倶楽部で会った秘書が、午後1時東横線の妙蓮寺駅ちかくの喫茶店でお待ちしている」
男が喫茶店の名前と住所を言う。
近くといいながらも歩くと結構ありそうだ。
「絵は、そこで彼女に渡せばいいんだな?」
「そうだ」
犬飼は少し考えてから。
「ひろみがひかりに乗っているという保障は?」
と聞いた。
「10時半に彼女からあなたに電話がある。ひかりの車内からだ。それで納得いただけるだろう」
「よし、いいだろう」
犬飼は了解した。
「秘書が絵の状態を確認し、私に連絡してくる手筈になっている」
男が続ける。
「絵に問題がなければ、人質は新横浜駅で解放する」
「問題があるわけはない」
犬飼が言い切った。
「お互いにそう願いたいものですな」
男の声が、心なしか嬉しそうに聞こえる。
「で、内偵のほうはいかがだったかな?」
男が話題を変えた。
「血が騒いだとしか言えんな」
犬飼はそう言ってから、少し間をおいて、
「『3110』さんよ、あんたの本当の狙いはなんなんだ?」
と、聞いた。こんな大掛かりな事をするのはたかが絵一枚の為だけであるはずがない。
「あんたは、俺が出版社と組んでるのを知っているし、今度のヤマを俺たちが公表するのは解ってる筈だよな」
男はじっと聞いているのか何も言わない。
「あんた、倶楽部の情報部の斎藤じゃないのか?」
犬飼は斎藤が支配人の座を狙って、騒ぎを起こしていると考えているのだ。
「ほぅ、そうだとすると?」
男は昨晩の秘書と同じように聞き返してくる。
「俺たちが書いたら、紐育倶楽部はただじゃすまねえぜ。あんたが狙っている支配人の席自体が無事かどうかあやしいもんだ。」
犬飼は男の反応が不可解なまま続けた。
「なるほど。私が『斎藤』とは、面白い考えですな。」
男がおかしそうに言った。
「ただ、それには無理があるかもしれん。何と言っても、『斎藤』は先週死んだと聞いているんでね・・・」
「なに?」
犬飼は絶句した。
「じゃあ、おまえは一体・・・」
「なに、内田 ひろみが戻ってきたら、犬飼さんは腕を振るって調べてきた事を大々的に発表されるとよろしい。当方もそちらの文才に期待している・・・ただ・・・」
男が急に声のトーンを落とした。
「あなたも、そしてあなたの友達の編集長も、背中には十分気をつけることだな・・・」
「なんだと?」
「倶楽部のやり口はもうご存知のはずだ。田中支配人は全力であなた方を潰しにかかるだろうと申し上げている。」
「ああ、そうだろうな」
犬飼はにやりとした。
「こっちもそのぐらいのほうがやりがいがあるってもんさ」
「そうか・・・それは御見それしていた」
男は犬飼の態度を笑うでもなく心配するでもなく、そう言うと、
「・・・さて、これでわたしたちがこうやって話をするのも最後になるだろうな」
と、一方的に会話を締めにかかる。
「そうかな?俺は執念深い方だぜ」
「・・・・」
犬飼の言葉には応えず、いつもの事で、男の方から受話器がおかれた。
「麦茶のむ?」
おっしょはんが台所から戻ってきた。盆の上に冷たく冷えた麦茶が乗っている。
「あら、終わったのねぇ」
受話器が置かれているのを見て、おっしょはんが言った。
「もう、あいつからの電話はないと思います」
犬飼が言う。
「そうなの?で、ひろみちゃんは?」
氷の音をカラカラと立てながら犬飼は麦茶を一気にあおった。ノドを湿らせて一心地つけてから
「ひろみからはもうすぐ電話が・・・」
そういい終わらないうちに、電話が鳴った。おっしょはんが手を伸ばして受話器をとる。
「もしもーし」
その表情が急に明るくなる。
「やだ、ひろみちゃん!ちょっとまってね。」
おっしょはんが押し付けるように渡す受話器を受け取って犬飼はそれに耳を当てた。おっしょはんは、気を利かせてまた台所へ消えていった。
「ひろみ・・・元気か?」
短いセンテンスだがそれだけで二人には通じる。受話器の向こうでの息遣いでひろみが涙を拭いているのが犬飼にはわかった。
「ははっ 無事なんだな?」
「うん 明・・・ ごめん」
犬飼には聞きたいことは山ほどあるが、どうしても今はストレートに状況を知りたかった。
「無事でよかった 今一人か?」
「見張りの男が一人付いてるけど、電話が終わるのをドアの外で待ってるわ」
「あはは 何時からそんな良い子に宗旨替えしたんだ?そいつを殴り倒して、途中下車しろよ」
「あっ そうよねえ わたしどうかしてる」
男の呪縛から解けたのか、ひろみに少し軽口が叩けるようになったようだ。
「でも、そう簡単には逃がしてくれないと思うわよ」
「そりゃそうだ。あいつらにとっておまえは取引の大事な引換券だからなあ」
「なんで私が引換券よ!」
久しぶりにひろみの怒った声が耳に飛び込んでくる。
「それだけ元気があれば抱きしめてキスくらいはできるな」
「ばかっ それより これからどうしたらいいの?」
犬飼の顔が引き締まった。
「これから俺は向こうが要求した絵を引き渡しに行く。それが終わったら、新横浜駅へお前を迎えに行くから、駅からは出ずに、ひかりを降りたホームで待ってろ」
「うん、わかった」
ひろみが相槌を打ちながらまた泣いているようだ。
「それから、飯を食いに行こう。何がいい?」
編集長のおごりはまた今度だ、と思いながら犬飼が明るく言った。
「あは・・・じゃあ、もんじゃがいいな なんか懐かしいもん」
「おいおい、久しぶりのデートでもんじゃ焼きか?」
「だってさ、毎日フレンチだと、飽きるよ」
「おいおい、拉致されて太っただなんて人に言えねえぞ」
おっしょはんが台所で「ぶっ」と吹き出したのが聞こえた。