『どうする家康 伊賀を越えろ』考察しちゃいます。
- カテゴリ:テレビ
- 2023/07/30 20:26:33
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「VIVANT」と「CODE」が始まる前に、2回目の地上波を観ながら、書き留めちゃいます。つくづく日ハムの新庄監督のファッションスペシャル黒マスクをひとりだけ外さないのが頭に着始めた。
では「伊賀を越えろ」の考察します。
・岡崎までの途中で「甲賀」と「伊賀」が並んであったのだろうか?どうも位置関係がわかんない。
・またまた前週シーンを使い過ぎ。あさらいで時間稼ぐなあ。逆に大鼠松本えりかが予告編の時から、何度も「これが最後と心得る・・・。」と言っていたのに、ラストまで元気じゃん。いよい壮絶な最後と思ってたのにーーっ!!そうだライバルの巫女古川琴音はいまどこに?
・「山崎の戦い」はもう終わっちまったってことかい?秀吉中国大返しもすんなり達成ってか・・・。
・それにしても肝心のタイトル神君伊賀越えってこんな楽勝なのか。上期の「お市の命を50キロ走ったあの子」「鳥居強右衛門」の方が立派な山越えだったよなーーー。
・穴山梅雪って、寝返り後、存在感薄ーー。
・本多正信はまだ復帰しないのか。服部半蔵のキャラ壊しがくどい。
・安土城炎上は?
・織田信忠の首も見つかってなかったのか。偶然過ぎ??
・帝、足利義昭の存在も薄すぎじゃない?
・来週は黒装束のお市?清須会議?小牧・長久手の戦いまで行くのかあ?
・あと4か月,ヤマ、あんのかなあ。
かな?
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全く関わっていませんので。
むしろ、光秀の最期に良く尺を取ったな、と感心します。まぁ、饗応で家康に光秀が遺恨を抱いたからかもしれませんが。
最期まで小物感満載の光秀を貫いた事は、いっそ清々しいくらいですね。
次回は清須会議をやる様ですが、さらっとでも天正壬午の乱(武田旧領を巡る徳川・北条・上杉の三つ巴の戦い)をやってくれるのかな?
秀吉主人公の場合は絶対にやらないと断言しても良い天正壬午の乱は、出来たら尺をとって欲しいものです。
寝返り後の穴山梅雪の存在感の薄さは、そもそも武田滅亡から信長の死まで二か月程しか経っていないのでドラマ的に存在感の示し様が無いと言うしかありません。
むしろ今回、家康の身代わりになった様な最期を遂げた事でしっかりと存在感を示したと言えるのではないかと思います。
家康一行と別行動をとった梅雪一行は、木津川の渡し辺りで落ち武者狩りに遭遇し梅雪は自害してしまうのですが、その際に家康の身代わりになったという説は以前からありました。
ただ、梅雪は武田の裏切り者、として描かれる場合が殆どなので身代わり説が採用される事はほぼ無かったのではないかな、と思われます。
今ドラマでは、瀬名の慈愛の国構想に共感していながら勝頼を止められず構想を破綻させてしまった事を悔いる人物として描かれてますので、身代わり説もまぁありかも? と思いますね。
安土城の炎上は、幾つかの説があります。
太閤記に書かれているのは光秀放火説ですが、これは作り話として現在はほぼ否定されています。
ルイス・フロイスは織田信雄放火説を記していますが、これも信憑性が薄いです。
蒲生父子が安土城退去の際に城下に放った火が城まで類焼した、というい説も痕跡が見つからないので否定的。
あとは落雷による火災説と夜盗や土民による略奪後の放火説があります。
無人化した城に略奪に入った夜盗などによる放火説が現実的に思えますが、定説は無い様です。
そもそっも焼けたのは天守と本丸だけで二の丸は残っており、城としての機能は十分残っていた様ですし。
信忠の首は見つかっていません。家臣に隠せと命じたのでそれが実行されたのでしょう。
帝と義昭は、家康主人公の場合存在感零でも当然。
今週も大作をどうもありがとうございました!!
ここまでテレビと違うんだあー。
伊賀と甲賀の名前ばかりのイメージ先行して、忍者大活躍と思ってましたねえ。
本多正信の登場は全くのおまけだったんでしょうか?
天海説も無かったです・・。残念。
ここでの船は、外海ではなく伊勢湾を渡るルートなので外海ルートより遥かに安全だったと思われます。
家康は後年(天下を獲った後)、角屋七郎次郎に子々孫々に至る迄の廻船自由の特権(日本国中の港に自由に寄港できる特権)を与えています。
大浜に到着した一行を松平家忠が出迎えていますが、このことは家忠日記に記されています。
家康が居城の岡崎城に帰還したのは、6月4日の深夜か5日の未明。信長の横死から三日の強行軍でした。
さて、以上が伊賀越えルートの中で現在最も有力視されている、桜峠から伊賀北部をほぼ真っすぐ突っ切るルートです。
以前は小川城から南東に移動し、御斎峠(おとぎとうげ)を越えた後に伊賀を東に突っ切り柘植に至るルートが有力視されていましたが、桜峠ルートより伊賀に深く入り込むより危険なルートである為現在は否定的です。
桜峠ルートの他に最近有力になってきたのが、小川城から甲賀の信楽に向かう、伊賀を避けて甲賀に迂回する甲賀ルートです。
協力者の多羅尾光俊や和田定教が甲賀在住であることを考えれば、甲賀ルートも非常に有力であると考えて良いでしょう。
更には、大和越えルートと呼ばれる説もあります。
これは竹内峠から八木、芋ケ峠、高見山、琴引から伊賀をほぼ縦断して柘植に至るルートで、非常に遠回りな上に伊賀を通る距離が最も長い為に現実的では無いと否定されていたものですが、最近家康が書いたとされる書状の写しが発見され再び注目されている様です。
その書状は大和越えの節云々と書かれており、大和越えの協力に対する感謝状の様なものらしいです。
此の感謝状らしきものを貰った人の子孫(地方有力者の家臣という非常に目立たない立場)が異例の大出世をしたらしく、感謝状は本物っぽいっみたい。
ただ桜峠ルートも様々な資料が残っている有力説なので、大和越えルートを推す研究者も複数のルートを使用したのではないか、と唱え桜峠ルートを否定していません。
ドラマでも幾つかのルートに分散していましたよね。
案外それが正解かもしれません。
但し、家康自身がどのルートを辿ったかは未だに判明しておらず謎のままです。
ドラマの様に光秀が家康を賞金首にしていなかったとしても、信長の同盟者だった家康は光秀にとっては討てる機会に討っておきたい相手(遺恨は無くても対光秀の軍を興す事が確実なので)ですし、少人数の武士の一行は一揆や落ち武者狩りの絶好の獲物。
ここで活躍するのが、実は信長が案内役としてつけてくれた長谷川秀一です。
土地勘のある秀一は、宇治田原の山口光広に急使を送って事情を説明。山口光広は実父の多羅尾光俊(近江信楽の代官)に使いを送って協力を要請。更に光広の舅である山口玄蕃(宇治田原城主)も協力してくれることになり、これらの人々が伊賀越えの重要なファクターとなります。
山口玄蕃は家臣を派遣して家康一行の木津川渡河を手助けし、6月2日夜に一行は宇治田原に到着し玄蕃の館に宿泊。堺から宇治田原迄、現代の整備された道を通っても半日位は要するらしいので、当時の人が健脚だったとしてもかなりの強行軍です。
翌日玄蕃の館を出発、途中遍照院という寺で休息をとり今後の道筋などを相談したといいます。
遍照院を出た後は多羅尾光俊の小川城に入って宿泊。
初日に較べてあまり距離を稼げていないのは(初日も半分位)、情勢を見極めながら慎重に進んだからだ、といわれています。
伊賀越えに同行していた茶屋四郎次郎の財力で、近隣の土豪たちを味方につけていた、とも言われてますね。
小川城で家康が書いたとされる蒲生賢秀・氏郷親子宛の書状が残っていて、小川城宿泊は確実と思われます。蒲生親子安土城の留守居役では本能寺の変の後、安土城にいた信長の一族を保護して自身の城日野城に退去しているので、書状はそれを労い明智は必ず討つ、と家康の決意表明をしたものです。
小川城宿泊の翌日、家康一行に和田定教(足利義昭を擁立した和田惟政の弟)が合流、桜峠を越えて伊賀北部を突っ切る形で柘植に至り、加太峠を越える際に一揆勢に襲われますが和田定教率いる甲賀郷士がこれを撃退。
当然ながら百地丹波など登場しません。あと、百地丹波は伊賀の頭目でもありません。
確かに伊賀は千賀地(服部は千賀地の一派?)、藤林、百地の三家が有名だとは思いますけどね。
加太峠を越えた家康一行は、関の瑞光寺で休憩をとりその後伊勢白子に移動。
白子では伊勢商人の角屋七郎次郎が船を手配し、
改めて伊賀越え解説、やっていきます。
家康は安土城で5月20日まで饗応を受け(光秀が接待したのは15~16日ですが、それ以降も他の織田重臣が接待を続けました)、21日から上方遊覧の為にまず京へ向かいます。
京での宿は、ドラマの通りに茶屋四郎次郎の屋敷。
数日に渡る上方遊覧の後、29日に堺に向かったのもドラマの通りですが、地理不案内の徳川一行の為に長谷秀一(当時は長谷川竹と名乗っており、信長の色小姓要するに男色のお相手だった模様。ちなみに森乱は父や兄が猛将なので、才覚で寵愛されたかもしれないものの、色方面は違うかも?)が案内役としてつきました。
当時5月は29日までで(旧暦だから?)、翌6月1日は堺の代官松井友閑の茶会に招かれています。
松井有閑は代官として堺の豪商津田宗及とも親交があったので、家康が茶会でもてなされた際に紹介された可能性は高いでしょう。
本能寺の変があった6月2日、上方遊覧の御礼言上の為に家康一行は京に向かいます。その際、本田忠勝が先行して京に向かっていたところ、本能寺の変で信長が討たれた事を知らせる為に馬で駆けていた茶屋四郎次郎に遭遇(四郎次郎自身は商家の生まれですが父親が信濃の武士だったので、馬術を仕込まれていたのかも)。
四郎次郎と共に取って返した忠勝は、飯森山の辺りで家康一行と合流し本能寺の変を報告。
茶屋四郎次郎による知らせに違いはありませんがドラマの様に堺に居る時ではなく、京に向かう途中です。
ところで、ネットで家康が堺から船を使って脱出しなかったのがおかしい、という意見が見られました。
そもそも変について知ったのが堺に居る時ではなかった、というのもあるでしょうが、当時の船と航海技術では、堺から三河に無事に辿り着ける確証が無かったからでしょうね。
堺から三河に帰るには、外海に出て紀伊半島の南を廻るルートになりますが、海が非常に荒く沈没・遭難の可能性が高いですので(造船技術も航海技術も未熟でしたので。現代の船と航海技術で考えてはいけない)。
という訳で、家康一行は陸路で三河を目指すことになります。
この時、家康一行は総勢34人(内二人は女性と思われます)。
徳川四天王(酒井忠次、本田忠勝、榊原康正、井伊直政当時はまだ万千代)に石川数正、鬼半蔵こと服部正成、槍半蔵こと渡部守綱等、一騎当千の家臣達が揃っていたっものの
私も同じこと思いました。
今回はまだ見ていないので後程NHK+で視聴してから解説させていただきますが、とりあえず一つだけ。
甲賀と伊賀は隣り合ってまして、伊賀の北側に甲賀があります。
現代の地図でも確認できます。
甲賀と伊賀は仲が険悪で争いあっていた、というイメージが何故かありますが実際はそんなことはなく、請け負った仕事で敵味方になった場合以外は、関係は悪く無かった様です。
では、詳しくはまた後日に。