刻の流れー103
- カテゴリ:自作小説
- 2023/07/23 22:39:30
次の日は昨日の雨があがり、それまでの暑さがウソのように気温が下がっていた。
もう、秋がそこまで来ているのかもしれない。
昨夜は編集長と延々と話しこみ、隠れ家に帰ってきたのは3時をかなりまわっていた。
ソファーで毛布に包まってからも、犬飼は『3110』の事が脳裏でちらついて、なかなか眠れない。
斎藤と言う男、確かにどこかで会ったような気がする。
それも、最近の事だ。霧のかかった記憶の中に何か光を認めながら、明け方犬飼は漸く眠りに付いた。
隠れ家のオーナーがコーヒーのマグを持ってガレージのドアを開けると、犬飼は既に身支度を整えていた。
犬飼と言う男はこういう状況だと、何日も眠らずに走り続ける事ができるようだ。
オーナーは「おう」とだけ声をかけてマグを犬飼に渡し、何も聞かずに母屋に戻っていった。
苦いコーヒーをすすりながら、その日の計画を確認し始めた。
『3110』は進入経路に地下水道を指示している。犬飼は地下水道を下見する為にヘルメットに、胸まであるウェーダー、水道局作業員の制服を用意し、午前中にセーフハウスを出た。
車を少し離れた路地に停めて、地下水道の入り口へ下りていく。
入り口にはめられた鉄格子は大きな観音開きの2枚戸で作業員用に小さなくぐり戸がついている。
鉄格子にはかなりさびが浮いているが錠は真新しい南京錠が取り付けられていた。
「さすが横浜、行き届いている。」
こんなところに盗みに入る奴もいないので進入防止だけの簡単な錠だ。
犬飼は手早く開けて中に入ると内から手を伸ばして閉め直す。
ヘルメットに付けられた懐中電灯のスイッチを入れ、奥へと進んだ。
地下水道は、昨日の雨で水位が上がっており、ウェーダーを着ていても、うっかりしていると作業着が濡れる。
犬飼はかなり苦労して、ロードメジャーと方位磁石で倶楽部の地下まで歩いた。
「この辺りだが・・・」
何度か分岐点に目印を付けて目的の昇り口と思わしきところに着いた犬飼の口元がふふっと緩んだ。
トンネルの中から通路がわかれて地上へ延びている。
通路の脇に黒いはしごが付いていた。犬飼はハシゴに手を掛けて、そろそろ3段ほど上り始めたが、急に動きを止めた。
頭の上にキラリと光る毛髪のように細く黒いワイヤーが張ってある。
「おっと これこれ・・・子供だましだな。」
ワイヤーの先を目で追うと単純なトラップだ。
ワイヤーが引っ張られてクリップが抜けると警報機が鳴る仕組みのようだ。
犬飼はワイヤーのテンションに気をつけながらワイヤーカッターで切る。
今日は侵入経路の下見が目的だ。
水道内の状態とマンホールから建物までの様子を確認し、侵入経路の障害物を除去しておけば後日いらない神経を使わなくてすむ。
はしごを上りきると、頭の上のマンホールのふたの穴から外の光が細く漏れてきていた。
穴に目を近づけると葉陰が揺れているのがわずかに見える。じっと外の様子に耳を澄ませたが、何も聞こえてこない。
足元の水路を流れる水音がトンネルに響いているだけだ。
犬飼はそっと蓋を押し上げた。
図面によると、ここは裏庭の隅に当たるはずだ。
細い隙間から外をうかがう
。昨晩見た古い洋館がすぐそこに迫っていた。
時間はそろそろ昼になろうとしているのに、建物は死んだようにひっそりとしている。
誰もいないようだ。犬飼は、音を立てないように蓋を元に戻し、ポケットから細い潜望鏡を取り出した。丁度45度に傾けて鏡が取り付けられており穴の中から外が窺える。
アイピースのところにレンズが付いているので2倍くらいには拡大して見ることができる。
犬飼はそれをマンホールの穴から少しだけ出して外の様子を伺った。
360度なめまわして見わたす。
倶楽部の敷地内はしんと静まり返り、昨夜の華やかなパーティーがウソのようだ。
犬飼は、図面にかかれていた厨房への勝手口らしいドアを探す。
「あれだな・・・」
マンホールから10メートルぐらいの所に、飾り気のないドアがある。
図面によると、ドアの上には防犯カメラが設置されていることになっている。
目を凝らすと、軒下に確かにカメラが認められた。
「固定式か・・・」
その時潜望鏡の中をチラッと犬の影が横切った。
犬飼はすぐに潜望鏡を下ろし
「なるほど、敷地図に犬は書き込めないと言う事か・・・」
一人ゴチた。
犬飼は、ウェーダーのポケットに潜望鏡を収め、水路に下りていった。
犬飼は水路や周りの交通量、倶楽部に出入りする業者や従業員の数、時間帯を数日に亘って綿密に観察した。
その間、編集長はあらゆる手を使って倶楽部とその客に付いて調べいるようだった。
彼にとっては、倶楽部自体よりも、防衛族の動向が気になるらしい。
少々、当初の目的とは異なるが、倶楽部がかかわっているのには違いない。
「早いとこ、中に忍び込んで、証拠を掴んできてくれよ。」
調査が進むに連れ、編集長は犬飼をしきりに突付きだした。
犬飼にも、侵入は早いに越した事はないのは解っていた。
探れば探るほど、相手に自分たちの存在をさらけだす危険が増していく。
ただ、一つ解った事は、殺された情報屋の匂いをいとも簡単に感知した先鋭さが今の相手に見られない事だ。
『3110』は支配人が神戸に出ており、倶楽部は守備が手薄だと言っていた。
それに加え、今、やつらは神戸にいると思われる犬飼とひろみを追っている。
「そのせいか?」
そう考えると、どうやらアキラたちの芝居が犬飼と編集長を動きやすくしているに違いない。
「あと、1日2日、もってくれると目鼻が付く・・・」
東京に戻って6日目、犬飼は、その夜、倶楽部潜入を決行する事にした。