私の母
- カテゴリ:日記
- 2023/07/05 10:26:05
母依存の私、少し母について紹介します。
生前母は、あの朝ドラ「おしん」を見てよく「オレはおしん以上だ」と言ってましたが本当に苦労してきた女性です。
貧しい農家の長女として生まれた母は、幼い頃からずっと家のためにやってきたようで… 学校へ行きたかったけれど「先生様に言ってきたから行かなくていい」と言われたとか… 少し余談になりますがそんな母が私に言うのは、
「だからお前たちを高校に行かせたんだ」と。 私の家も貧しかった、父の安い給料で貧乏所帯。その当時としては高校へはそう皆がいけるような時代でありませんでした。そんな中での私は幸せ者だと思ってます、今思えば。
母は、自分が学校へろくに行けなかったこと、字が書けなかったことで私たちに何とか自分の思いを達成したかったんだと思ってます。その母、書くのはいつもカタカナ交じりのひらがなでした。
その母、後におばさんの手伝いをして長野のあちこちへ行ってました。
そして独り立ちできるようになると東京に出て商い(行商)をしてました。
母の話ーー 向島区隅田3丁目のタバコ屋さんがあって… とよく覚えていたもので語ります。鐘ヶ淵駅の近くです。そこからその界隈、四ツ木橋を超えて千葉方面、松戸、市川までリヤカーを引いて回っていたようでした。
その母の唯一の遊び場所が浅草でした。 また余談になります。
晩年、母の亡くなる1か月前
「母ちゃんのところにスカイツリーができたよ」と言ったら
「オレのところと少し違う」と母。
少しボケていましたがまだはっきり覚えてました。 驚きです。
その母、時勢が次第に戦争の機運が激しくなり辞めて帰ってきました。 戦争前のことです。
戦後新潟市内のこちらで下町I(しもまち)、と言われている区域ですがそこで女中奉公していました。
何かそこのご主人が厳しい人とかである日大雪が降ったのを機会に辞めたとか…
その後我が家に嫁いできたのですが、母曰く。
いいところかと思ったらとんでもない大家族の狭い長屋でびっしり寄せ合って暮らしていたところだった、と。 祖父母、一生独身で過ごした父の姉、… その貧乏所帯を必死にやりくりしてきた母、そこへ私と言う一歩も外へ出られなかった一人こもって我儘、泣き虫、強情で手に負えないのがいて…
そんな母が私に言うのは、「誰とでも仲良くやって行け。そうすれば可愛がられる。」… でもね、… 私事ですが母の言うことをやろうとすればすぐうらぎられる、そしてすぐ母と口喧嘩、確執をもってしまいました。
でも今では、その母の叱咤ーー私の母は、よその人のようにそう甘くありませんでした。例えば仕事を辞めると「また仕事をべちゃった、それでどうする!」といつも怒られてました。それで仕事を辞める度に必死になって職探し…でも何故かちゃんと仕事って見つかるもので… まあ弟にも言われましたがそこは、自分がやめるか、我慢して居座るかのところで…面白いものです。ーー 今はその説教と小言が懐かしく恋しいです。
そうやって叱られた来たからこそ今は弟達のやっかいにならずに一人でやっていけるようになったのですが…感謝の一言です。
暑さが緩んだら また スイーツを作るつもりです。
母がいたころはもう暑いと食べれない、なんかすごく勝手してましたが今は…母が私に… 食べろと言っているのか… 何とか食べるようにしてます。 食べたくなくとも… 何て言うか本能的と言うか作って食べてます。私の食事はほとんど自炊です。 安くてすむし… いつも少し多く作るから…その代わり不精になってますが…
それでももうぐったり…( `ー´)ノ
優しい心遣いありがとうございます。
ここムシムシ うだってます。
あfりがとう。
私は少しそそっかしいと言うか変に気を遣う欠点があって…
改めて仲良くね。
迷惑なんて思った事は一度もありません。
貴女専用を見るだけでも構いません。
私はあなたと 友達でいたいだけです。