Nicotto Town


ぴのぴののなんでも日記


『どうする家康 設楽原の戦い』の考察しまーすっ


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 先週とまたまたまた同じく、日本ハムファイターズ惨敗の夜。シラフが辛いなあ。まだ火曜日だし。巡回は見送り。もう1本映画観ます。

 では「設楽原の戦い」の記録です。
・ニューヒーローは登場せず。
・伝説の長篠の戦いの戦闘シーンは珍しくほぼ満足。鉄砲隊「3000」丁のCGには見えなかったけどね。騎馬軍団も馬がバタバタやられたら、動物保護協会にやられるんだろうな。
・秀吉、佐久間たちのゆずり合いのギャグはくさい。
・「えびすくい」もいらない。
・結局、勝頼が部下の意見を聞かず、強権発動で特攻かけた愚策という教科書説で落着だった・・・。やや肩透かしだなあ。
・信康が痛んできている、築山殿がそれを見ていて何かせざるを得ない局面に追い込めらていれる。外堀が徐々に埋められて来て、何かしでかす伏線回だった気がする。次は信康ご乱心、五徳のチクリで悲劇に向かうということか?
・いよいよ千代が次週、凋落を開始する?「築山殿、覚醒」とは、いい意味?悪い意味?後者かな。
・この頃、京都はからっぽで大丈夫?
                     かな?
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2023/06/18 01:34
 ユーミさん
 書籍並みのご解説、本当にどうもありがとうございます。
 今夜、ググった未解決ワードは、「高森恵光寺」「鳶ケ巣山砦の奇襲」「ムスカ」「丸に二つ引き紋」「忌部氏」「従三位・右近衛大将」「北条幻庵」「洛中洛外図屏風」ほかです・・・・。
 いったいどんだけの出典資料を読まれてるのでしょうか?
 鎌倉殿の~の時も凄かったですよね―――――。
 さて、今夜の展開は、神回か、橋田壽賀子回か、それとも?
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2023/06/17 16:35
信長が徳川を危険視する理由も、意味が分からないですね。

設楽原で大敗した武田ですが、滅亡まではまだ7年あり、大敗で対外拡大路線は大きく見直さざるをえないとはいえ、まだまだ大勢力。

越後の上杉謙信は、ドラマでは全く出てきていないものの、信長が戦いたくない相手として色々と贈り物などをしてご機嫌をとっている相手です。信長が謙信に贈った洛中洛外図屏風は現在は国宝に指定されている程の傑作。

相模の北条は、北条氏康が亡くなったとはいえ未だ北条幻庵が健在。幻庵が生きていれば北条が秀吉に滅ぼされる事もなかったかも、と個人的には思っている傑物です。

京を追放された足利義昭は、それでもまだ将軍としての権威はそれなりに維持していて瀬戸内の鞆に鞆幕府を開いています。
この方、後に秀吉とは割と良い関係に落ち着くのですが反信長の姿勢は一貫して持ち続けています。

義昭の後ろ盾になっているのは毛利。かなり不本意だったらしいですが、義昭が転がり込んできた為になし崩しに織田と対立する事に。

この他、東北には伊達や佐竹もいる状況。

この状況で徳川を危険視する理由とは…

強いて言えば、築山殿を介して信康が受け継いでいる足利の血統…ですかねぇ?
築山殿が今川義元の姪というのは最近の研究で否定されていますが、彼女の父親関口氏純は元は瀬名家の出身で瀬名家は今川家の流れを汲んでいる一門衆。
そして今川家は、丸に二つ引き紋を使用出来る足利家の分家。
信康はかなり遠くはなるものの、一応足利の血統を受け継いでいると言えなくもない訳です。
足利の血統は源氏の血統と言える訳で。
かなり胡散臭い、父親の家康の源氏の末裔という主張より信康の方が正統。

また、家康の源氏の末裔というのを認めるとしたら、途中で藤原氏に入った者がいるのは確かで藤原氏を名乗っても詐称ではありません。

対して織田は、藤原氏を称してはいますが本来は忌部氏であり藤原氏は詐称。

血統だけを論じれば、織田は徳川に劣るかもしれません。もしかしたら。

ですが、信長自身は設楽原の戦いのあとには従三位・右近衛大将に任ぜられますし、やはり徳川を危険視する理由がわかりません。
領国の石高も、三河と遠江を足して漸く尾張一国と張り合える程度ですし。


3万は織田の全軍ではないので。
京都にもちゃんと誰か入っている筈。からっぽではないですよ。
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2023/06/17 15:42
武田の精強さが窺い知れるというものです。

最も奥まで攻め込んだのは「高森恵光寺」という武将で、討ち死にした場所に墓が作られ現在も祀られています。
史料には全く名前の無い一介の武将に過ぎませんが、流石は戦国最強と言われた武田の猛者と言うべきでしょう。

ところで今回大いに不満だったのは、酒井忠次の献策で行われる筈だった鳶ケ巣山砦の奇襲が、織田側から謀られた形で実行する事になったところです。
ダチョウクラブ(でしたっけ?)のギャグのオマージュやえびすくいを見せるより、ここは史実通りしっかり描写して欲しかったです。
忠次が鳶ケ巣山砦の奇襲を献策し、信長は最初手酷くその策を退けます。
しかしそれは、忠次の策が非常に有効なものだったので万が一にも武田に漏れる事を畏れた信長が敢えて却下してみせたっもので、後から密かに忠次を呼び寄せた信長は彼の策を褒め鳶ケ巣山砦の奇襲を改めて忠次に命じたんです。
忠次は別動隊四千(徳川二千、織田二千(鉄砲隊五百を含む)の混成部隊)を率いて山を大きく迂回して明け方頃に鳶ケ巣山砦を急襲。一度占拠した砦を武田に奪い返されものの再度撃破して砦を占拠。他2カ所の武田が築いた砦も落とし、勝頼が長篠城包囲に残していた三千の武田軍も、酒井別動隊に呼応して長篠城から討って出た奥平勢と協力して殲滅。
これをもって長篠城は救われ、設楽原で織田・徳川連合軍と対峙している武田軍の後背を絶つ事にも成功した訳です。
徳川四天王筆頭酒井忠次の見せ場だったんですよ。
それがつまらないギャグにつぶされたわけで…非常に不満です。

「真・三方ヶ原合戦」で泣かされた様に、局所的に良いなぁ、と思わされるところはあるものの、脚本の古沢氏とは感性が合いません。根本的に相容れないと言って良いです。

不満と言えば、いつまでも太鼓持ちの様に信長の傍に侍っている秀吉もちょっとどうにかならないものか、と。
お前はムスカか、と言いたくなる様なサイコパスな発言はともかく、信長の側に付き従うその立ち位置は森蘭丸のものだろうが、と突っ込みたくなっています。
長篠・設楽原の戦いにおいて、羽柴秀吉がいるべき場所は信長の側ではなく前線だったんです。前線指揮官が持ち場を離れて本陣で太鼓持ちをやってたら駄目でしょう。
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2023/06/17 14:55
残る長崎は九州で甲斐からは非常に遠い。
武田にとって、鉛や硝石の入手は織田より遥かに困難だった訳です。
その為、武田は銅銭の永楽通宝を溶かして鉄砲の玉を作ったそうですので。
玉を作る為に永楽銭を納める様に、という勝頼の書状が残っています。

織田・徳川連合軍鉄砲隊の玉数は300と信長公記に記されています。対する武田は長篠城攻めでの消費もあった為に玉数は50程度と推測されています。
鉄砲の数こそ三千VS千と三分の一にすぎませんが、玉数では90万VS5万と18倍もの差が生じています。
これだけを見るとワンサイドゲームになりかねない差ですが、武田はこれを一点集中攻撃で対抗して善戦に持ち込むんですね。

武田の騎馬隊に対抗する為、織田・徳川連合軍は設楽原の地形を利用して三重の馬防柵を2キロに渡って築きました。簡単に乗り越えられない様に逆茂木という先端が尖った木の枝を柵の前に並べる念の入れようで。
ネットには馬防柵も後の作り話だ、という意見が散見されますが、甲陽軍鑑や一次資料である勝頼の書状にも記載がありますので(書状には城と記されてます)、馬防柵が存在しなかったという説はありえません。
連合軍の鉄砲隊は、この馬防柵に沿って配置され、先着順自由連射で武田軍に向かって射撃したわけです。

対する武田軍は、ドラマの様に横に拡がって騎馬隊で突撃したのではなく、設楽原に通る3本の街道を利用して進軍したと思われます。
設楽原は窪地で水捌けが悪い土地です。土地改良がされた現代ならともかく、当時は街道以外は下手をすると腰まで泥につかりかねない状況だった筈なので。
先頭は玉避けの竹束の盾(当時の鉄砲は当たれば破壊力がありますが、貫通力は無かったので竹束が有効でした)、盾に守られた鉄砲隊、その後背が騎馬隊、更に後方が槍隊という構成だった筈。
両軍の相対距離が50mになったところで双方が射撃を開始。
2キロという線に沿った連合軍の射撃に対し、武田軍は犠牲覚悟の一点集中攻撃で連合軍側の鉄砲隊の一部を壊滅させ馬防柵を突破します。
ただやはり玉数が違い過ぎる為に武田の鉄砲隊は次々に玉切れに。
兵数自体も武田は連合軍の半分以下でしたので、一部の馬防柵は突破したものの後が続かなかった様です。
しかも馬防柵は三重でしたし。
それでも、その三重の馬防柵の内側まで突撃した武田の武将もいたのですから、
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2023/06/17 13:53
こんにちは^^

「設楽原の戦い」は、三段撃ちは採用されませんでしたが武田軍は従来通りに騎馬での突撃になっており、新説と旧説を取り混ぜた内容になっておりました。
三段撃ちは明治期の陸軍が言いだした事で、それ以来の通説となっていたのですが(日本史の授業では三段撃ち、と習いました)、十年以上も前から三段撃では騎馬の突進速度を上回れない、と言われ出していましたからね。

火縄銃の有効射程距離は約50m。丸玉でライフリングも無いので、50m迄は初速のおかげで真っすぐ飛ぶものの、それ以上となると重力や風の影響を受けて弾道が大きく逸れていきます。
その50mを騎馬は約4~5秒で駆け抜ける事が可能。
ですから、鉄砲に対して騎馬で突撃する事は、実は決して無謀な愚策ではなくむしろ対鉄砲のセオリーと言って良い戦術でした。

長篠・設楽原の戦いは織田・徳川連合軍の鉄砲隊に向かって武田が無謀な突撃を繰り返して惨敗したワンサイドゲームだった、と良く言われていましたが、そもそもこの合戦は8時間程続いています。ちなみに三方ヶ原合戦は2時間程度。
8時間もかかるワンサイドゲームがあろう筈がありません。
武田軍が善戦したからこその8時間です。

さて、三段撃ちに替わって採用されていたのは最近有力視されるようになってきた「先着順自由連射」でしたね。
ドラマ中でも、一列目の銃撃の後に2列目と入れ替わったものの「準備の出来た者から次々放て」という号令がかかっておりましたし。
尤も、自由連射は織田鉄砲隊の方式で、徳川の鉄砲隊は射撃種一人に対して複数の玉込め手を付ける方式で玉込め時間を短縮していた様ですけどね。

戦いの行方を絶対的に左右した様に描かれた鉄砲ですが、実は武田もその有用性を良く理解していて織田には及ばなかったものの千丁程度は有していたらしいです。
武田信玄陣立書によると、武田軍の先陣は鉄砲衆、次鋒が騎馬衆、三陣が長柄槍衆、と記されています。
信玄の時代から鉄砲を重視していた訳です。
ただ甲斐は、鉄砲に重要な鉛や硝石の入手が容易ではありませんでした。
これらは主に南蛮貿易で入手しますが、貿易が出来るのはこの時代では堺と長崎くらいしかありませんでした。そのうちの堺は織田が抑えています。織田以前は三好でしたが。




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