『どうする家康 岡崎クーデター』の考察しまーす!
- カテゴリ:テレビ
- 2023/05/31 00:09:42
♡・・*・・♡・・*・・♡・・*・・♡・・*・・♡・・*・・♡・・*・・♡
やりーっ!!日本ハムファイターズ勝利の夜の家康日記だあ。ちょっと檸檬堂を飲んじゃってますけど、今週の記録、残してから眠りまーす。
やりーっ!!日本ハムファイターズ勝利の夜の家康日記だあ。ちょっと檸檬堂を飲んじゃってますけど、今週の記録、残してから眠りまーす。
では「岡崎クーデター」の記録です。
・申し訳ありません。大岡弥四郎事件?は全くノーケアでした・・・。この岡崎クーデターの意味は築山殿の命に係わる謀反のことと勝手に推測してましたが、全然違う展開でビックリ。試験には出なかった。
・あの密告してくれたおデブちゃんは首謀者が言っていた悲惨な栄養事情なら、あんなに肥満で、格闘戦もダメじゃん。
・勝頼はここまで来ていてほんとに引き返したのか?
・五徳と築山の確執がエスカレートして遂に破綻する伏線でしょう。ウザく見えれば見えるほどいい演技ってことか。
・展開上、瀬名襲撃のふとんの中にはいないことは読めた。
・残念。井伊直政の殺陣が貧弱だったあー。まだまだ鍛錬足りない。
・次回「長篠を救え」??長篠の戦いで騎馬軍団を鉄砲隊で撃破の「長篠」のことだよなあ。うーーん、ググらず、待と。
♡・・*・・♡・・*・・♡・・*・・♡・・*・・♡・・*・・♡・・*・・♡
長篠・設楽原ひっくるめて現在の新城市ですね。歴史資料館もあります。
この設楽原で織田・徳川連合軍VS武田軍の戦いが行われました。
信玄も元々は晴信でしたし、その父は信虎でした。
ですが、勝頼のみは「信」の字を与えられていません。
それは彼が元々は諏訪氏の後継者とされていたからで、諏訪の通字である「頼」を与えられた為です。
武田義信事件が無ければ、勝頼が武田の家督を継ぐことも無かった筈。
以前にも書いた通り、勝頼の武田家相続は飽くまでも緊急避難的措置で、嫡男信勝が16歳になったら信勝に家督を譲らなければならない繋ぎの当主、陣代に過ぎなかった訳です。
ですから、武田の旗も使わせて貰えていません。
勝頼時代の武田軍は、あの風林火山の旗を使用せず、長篠の戦いの絵図に描かれている通り、代わりに「大」と書かれた旗を使用しています。
「大」の字は、諏訪氏が諏訪大社の大祝(おおほうり)だったところからとったのでしょう。
この様に。勝頼の当主としての地盤は父信玄と較べて遥かに弱かった。
おまけに甲斐という国は、国衆(国人衆)の発言力が非常に強い土地柄で、国主といえどもその意向を容易には無視できませんでした。
そのような状況ですので、勝頼としては弱腰な姿勢は見せられなかったのでしょう。
その上、勝頼には信玄をも凌ぐ軍才があった様ですし。
事実、武田の最大版図は勝頼の代に築かれています。
強すぎた為に却って武田滅亡を招いた、とも言えます。
現代人の感覚では大いに同調出来るのですが、あの時代のそれも上級武士が発するとは思えないな、とも感じてしまいます。
戦国時代の人間の考え方や感覚は、現代人とは全く違いますから。
武門の誉れ、武門の意地、戦って殺して所領を奪ってなんぼのもん、というのが当時の武士ですし。
当時の徳川軍は、浜松が主力で岡崎は後方支援が主体だったらしいです。
ですから中々武功を挙げられない、と不満が溜まっていたと言います。
また、徳川と武田を比較すればこの時点では武田が優勢なのは明らかでしたし。
徳川は長篠は取り返していたものの、二俣城奪還には失敗。信玄の西上作戦時に一旦奪われ、信玄の死後に徳川方に戻っていた東遠江の高天神城も、勝頼に力攻めで落とされて奪われています。
高天神城の小笠原氏助は家康に援軍を求めましたが家康はすぐには援軍を送りませんでした。
三方ヶ原の敗戦で兵が足りなかったのでしょうね。家康は信長に援軍を乞いましたが、信長も多分越前の一向一揆対策ですぐに兵を出せず、漸く出した援軍が三河のの吉田城に到着した時点で高天神城は持ち堪えられずに落ちたとのことです。
此の事も、織田は頼りにならない、と岡崎衆に思わせたかもしれません。
ちなみに、援軍が間に合わなかった詫びとして、信長は家康に黄金を贈ったそうです。
ところで、ドラマでの勝頼はいの一番に三河侵攻を企てた様に見えますが、実際は東美濃や遠江を先に侵攻しています。
遠江侵攻が前述の高い天神城攻略、東美濃侵攻が岩村城や明知城攻略ですね。
特に明知城は、美濃、尾張、三河、遠江侵攻の拠点となる要衝。
信長も自ら3万の兵で明知城救援にでましたが失敗しています。
奪われた明知城奪還の為、再度三万の兵を自ら率いたものの、山県昌景の6千の兵に蹴散らされています。
強いですねぇ、武田軍。
信玄の遺言で戦を控える様に言われながら積極攻勢に出た勝頼ですが、そうせざるを得ない事情もあったのかも、という気がします。
信玄には勝頼を含めて7人の男子がいました。
義信、信親、信之、勝頼、盛信、信貞、信清、となります。
勝頼一人だけ異彩を放っている事が分かりますよね。
武田は、「鎌倉殿~」に登場した甲斐源氏武田信義からずっと「信」の文字を
岡崎クーデターこと大岡弥四郎事件について。
こちらは、大賀弥四郎事件として三河物語や徳川実記に記述があります。
特に三河物語に詳しく書かれている様ですが、内容はかなり矮小化されています。
そもそも名前からして違っておりますし、身分も中間という下級武士とされているくらいです。。
これは大岡弥四郎が三河譜代の大岡氏の人物であると認めたくなかったからかもしれません。
徳川実記の方では、名前こそ大賀弥四郎と三河物語と同様ですが、松平新右衛門、江戸直定らと共に岡崎町奉行を務めた上級武士としています。
名前が大賀なのは、実記の成立が江戸時代中期なので某有名江戸町奉行様と同じ苗字にするのを憚ったのかな? と個人的にはちょっと思ってみたり…
大岡弥四郎は同僚の松平新右衛門、岡崎城家老石川春重、その他小谷甚左衛門、倉地平左衛門、山田重英などと謀って武田と内通し、武田軍の侵攻を幇助しようと計画したのだとか。
内通の書状を武田勝頼に送り、勝頼もそれに応じて一万五千の軍を出したらしいです。
ただし謀反計画は山田重英が途中で翻意した為家康が知る所となり、謀反計画は未遂で終わります。
石川春重は切腹、倉地平左衛門は逃亡したものの途中で追いつかれて討ち取られる結果に。
小谷甚左衛門のみが二俣城まで逃走に成功し、そこから更に甲斐に逃げ延びたとされています。
首謀者と言える大岡弥四郎は、岡崎及び浜松城下を引き回しの上、鋸引きの刑に処されました。
妻子も連座で磔で殺されています。
ドラマでは五徳姫が「惨たらしく殺せ」と言っていましたが、実際は大岡弥四郎に目をかけ引き立てていたのに裏切られた家康が激怒した結果の様です。
徳川が滅びかねない謀反計画でしたので、家康も怒髪天だったのかもしれません。
鋸引きと言えば、信長を鉄砲で狙撃した者の失敗して逃亡したものの、後に捕らえられて処刑された杉谷善住坊の処刑方として有名ですが、残酷な処刑方なので他にも例があるとは知りませんでした。
ところで、大岡弥四郎の内通書に応じる形で兵を出した勝頼ですが、岡崎にまでは達しておりません。
その前に謀反計画が発覚して大岡らが処罰されてしまったので、その時点で岡崎侵攻を取り止めて、長篠城攻略に切り替えています。
ドラマの様な岡崎城攻防戦は歴史上存在していません。
築山殿と五徳姫との確執も、理由は別です。