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靴の記念日

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【靴の記念日】 くつのきねんび shoe Anniversaries

☆1870年(明治3年)のこの日、
 実業家の西村勝三さんが東京都中央区築地入船町に
 日本初の西洋靴の工場であります「伊勢勝造靴場」を解説しました。

<概要>

実業家の西村勝三さんが「伊勢勝造靴場」を開設しましたことで
生まれました記念日ですが、東京靴同業組合さんが1932年に制定したものです。

《西村勝三(にしむらかつぞう)》さん

1837年1月15日「(天保7年12月9日ー1907年明治40年)
           1月31日」。

〇明治の工業の父

〔日本で初めて西洋靴を作りました男は東京駅の赤煉瓦も作っていた〕

日本の靴文化の中で洋式の靴が履かれるようになりましたのは、
江戸時代末期から明治時代の初期の頃です。

明治時代に入りますと西洋式の軍服が主流となってきますが、
その製品の精度は納得のいくものとは程遠い酷い物だったといわれています。

そこで・・・

質の良い西洋靴を作ります為に、
兵学者でありました大村益次郎さんが御用商人でした西村勝三さんに命令します。
そして、国産靴工場を建てさせることになりました。

《大村益次郎(おおむらますじろう)》さん

1824年5月30日(文政7年5月3日)ー1869年12月7日
(明治2年12月7日)

幕末維新期の政治家です。
明治陸軍建設の功労者です。

周防(現:山口県)の鋳銭司村字大村の医師村田孝益の子です。
幼名は惣太郎さんです。
のちに良庵さん、蔵六さんです。

19歳で蘭医であります梅田幽斎さんに学びまして、
翌年豊後(現:大分県)の広瀬淡窓さんに漢籍を学びます。

23歳の時に大坂の緒方洪庵さんの適塾に入りまして、
蘭学、医学を修めまして、塾長を務めました。
この間に長崎を訪れまして名医であります奥山静寂さんに学びます。

27歳で父母を養います為に帰郷しまして医を開業しましたが振るわずに、
宇和島藩に迎え入れられまして西洋兵書の翻訳、軍艦製造等を指導します。

安政3年(1856年)江戸に出まして鳩居堂を開塾しまして、
幕府蕃所調所教授手伝を経まして講武所教授に就任します。

この間ヘボンさんに英語を学びました。

名声を聞きました長州藩は万延1年(1860年)出仕を命じました。
帰藩して兵学を教えまして、兵制改革に携わります。

慶応2年(1866年)潮州戦争には石見口の総参謀として
幕府軍を壊滅させました。

慶応4年1月戊辰戦争が起こりますと、討幕軍として上洛しました。
維新政府の軍防事務局判事加勢に明治らまして、軍政事務を担当します。

慶応4年4月江戸に出まして上野彰義隊討伐、
奥羽・北越の平定作戦にも携わりました。

総合的な視点で戦局を促えまして、
軍略は戦う前から必勝の成算をうかがわせるものがありました。

西郷隆盛さんは大村さんの軍が進まないのをみまして、
部下将士の進めるままに兵を率いまして東上しまして、
戦地平定を申し出ました。

大村さんは西郷さんを諫めまして、西郷さんの青森到着前に五稜郭が陥落します。
西郷さんは大村さんの卓見に感服しまして、
「我誤てり面を合はすに恥づ」とそのまま帰郷します。

慶応4年10月軍務官副知事となりまして箱館(現:函館)に鎮定します。
ここに戊辰戦争は終結しまして、
その戦の功によりまして永世禄1500石を受け取ります。

明治2年(1869年)兵部大輔となります。

軍制を徹底的に改革します為に、
陸軍はフランス、海軍はイギリスに習うこと。
藩兵解隊、帯刀禁止、徴兵制度の採用等を建白します。

この為明治2年9月4日京阪地方旅行中に反対派士族の8人に襲われまして、
それが元で死去致しました。

〇日本で初めて

これが日本で初めての靴工場となります。

初めてのことだらけでした西村さんの苦労は並大抵ではありませんでしたが、
着々と前に進めまして、いよいよ開業となりました矢先に。
大村益次郎さんが命を落としてしまいます。

彼の発注で造りました靴は引き取り手が無くなってしまいまして、
西村さんは途方に暮れそうになりました。

ところが・・・

同じ年の冬に御親兵頭から軍用靴4万足という大量発注が舞い込みまして、
工場はどんどん大きく発展していくこととなります。

〇明治の工場の父

西村さんはその後、製靴業の祖としてその名を残しましたが、
実はそれ以上の大きな功績を残しています。

それは・・・

文明開化の象徴ともいうべき白煉瓦や硝子の製造です。

1875年(明治8年)に品川白煉瓦を創設しまして、
耐火煉瓦や赤煉瓦を製造します。

*品川白煉瓦さん・・・現:品川リフラクトリーズさん

有名な「東京駅の赤煉瓦」の全量を納入しましたのも彼の功績です。

ドイツの技術を取り入れました洋式硝子工場では、
1888年(明治21年)にビール瓶の大量生産に成功しています。

その為・・・

西村さんは「明治の工業の父」と呼ばれています。

〇サイズ

西洋人の靴のサイズが日本人には合わなかった為、
大き過ぎます西洋の軍靴の代わりになりますようにと、
日本陸軍の創始者であります大村益次郎さんの提案によりまして
工場が作られました。

〇靴業発祥の地

東京都中央区入船三丁目には、「靴業発祥の地」の記念碑が建てられています。
碑文にあります「兵部大輔」とは当時の日本の「兵部省」の官職で、
現在での次官に該当します。

〇他の日の靴の日

@ダイアナ靴の日(9月2日)

 女性の靴を販売、製造していますダイアナ株式会社によりまして
 制定されました「ダイアナ靴の日」があります。

@いい靴の日(11月9日)

 「11=いい+9=く(つ)の語呂合わせによりまして生まれた記念日です。
 
 記念日を制定しました「いい靴の日プロジェクト」は、
 現在でも痛みの無い体作りを推進しています。

 いい靴の日には自分の体に合いました靴を選びますことで、
 正しい歩き方が出来るようにと願いが込められています。

問題 赤煉瓦を造りましたのは西村勝三さんです。

   その赤煉瓦を使用して東京駅を造りましたのはどなたでしょうか?
   教えてください。

1、辰野金吾(たつのきんご)さん

2、左甚五郎(ひだりじんごろう)さん

3、隈研吾(くまけんご)さん

ヒント・・・〇正解の人物

      肥前国(現:佐賀県)出身の建築家です。
    
      明治期に日本の近代建築の礎を築きました。
    
      1880年(明治13年)英国留学に出発をします。
      コンドルさんの推薦を基にバージェス建築事務所とロンドン大学で
      建築を学びます。
 
      コンドルさんの教授退官後・・・
     
      1884年工部大学校教授に就任します。
      東京帝国大学では教育活動に励み、
      日本の建築界を引っ張っていく人材を輩出。

      1896年(明治29年)2月には日本銀行を竣工。
      1974年には国の重要文化財に指定されました。

      東京駅丸の内駅舎は、ドイツの鉄道技術者であります
      フランツ・バルツァーさんにより配置等が決定されました。
      駅舎は皇居の正面と対面しています。

お分かりの方は数字もしくは赤煉瓦を使用して東京駅を
造りました方をよろしくお願いします。





















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