Nicotto Town



3/2 キラキラと4択

仮想タウンでキラキラを集めました。

2023/03/02
キラキラ
集めた場所 個数
コーデ広場 5
神社広場 5

4択  「緑茶


キラキラ  「神社広場 本殿

     「コーデ広場」左の本屋

4択 コタツで飲みたい温かい飲み物は → 緑茶




こたつに蜜柑!!
やはりのぼせた体にはすっとした水分がいい。
コーヒー党の人はいつでもコーヒーだろうけど、緑茶~~~。

こたつに入っていたら「なんか喉乾いた」と誰かが言い出し、誰が寒い台所に行くか無言の戦いが!!
まぁお母さんが立ち上がるのだが・・。
お母さんて偉い!!!

冬のこたつと台所は天国と地獄。
台所は食物を置くから家の中でも冷暗なところにある。
寒い!!!
床冷たい!!!
蛇口からでる水つめてぇええ!!!

でも外にある井戸に水汲みにいかなくていいのだから日本は恵まれているのだ。
外にあるならまだしも、何時間も歩いて水を汲みにいかなければいけないところもある。

でもそういうところって何で井戸引かないんだろ??

日本の江戸時代。
当時の東京は寂れた村が少しある程度の極貧の土地。
というのも火山灰やなんやで米はとれないし、水も乏しく人が大勢住む場所じゃなかったのだ。
そこに家康は大きな都市を作ることにする。
権力を握ってからも当時都であった近畿には戻らず、せっせと江戸を大都市にするべく普請するのだ。

東京を代表する街の1つの銀座も、道の大きさは家康が定めた時のままだ。
大体1200mのブロック毎に区切られ、その1つのブロックの周囲に家をたて、中央は開けておく。
ブロックの中には18の町屋敷が収められていて、町屋敷は16戸の長屋、道に面した店2軒、そしてその町屋敷の人が使う井戸と共同トイレが設定されている。
1つの町屋敷の長さは40mなので長屋に住む人は家をでて30mも歩かずに井戸を使えたのだ。
1.2km四方の中に18個の井戸が作られていたことになる。
全部で何基ぐらいの井戸があったのだろう?と検索してみたら「当時で世界一の井戸の数」という記述はあるのに何基か書いてない。
比較できないじゃないかーーー。

江戸は海の側と海の埋立地からできているので、地面を掘っても塩水ぐらいしか出ない。
なので川から水を引いて各井戸に注ぎ込むタイプの井戸だ。
玉川上水など4.3kmも水を引いてきているし、取水しているところから最後の井戸までの標高差が92mもあるのに、そんなんじゃ水がどばーーーーー!!と流れて途中の井戸はからから、最後は水が溢れるわーーーー!となんと21cmの差しか出さないように設計・施工されたのだった。
それだと水はゆるゆると多くを潤して下へ下へ流れていく。
当然ながら、その流れる水を管理する役所は厳格さをもって運営されていたという。

関東大震災の時に「井戸に毒が入れられた」ということに住民がいきりたったのはほぼ全ての井戸は繋がっていて、どこかに毒がいれられたらその下流にある井戸も全部毒入になるという恐怖があったからでその井戸の大事さを東京の人は熟知していたと思われる。
7月7日に毎年ある井戸の掃除には住民全員が協力したぐらいだ。

関東大震災は大正12年。
水道が蛇口からでるようになる東京水道局は明治31年に神田・日本橋を流水したのを皮切りに、明治44年に完成にいたる・・・のだが、それはあくまでも都会部分。
小河内貯水池、東村山浄水場の建設は昭和13年だ。
震災時、井戸はまだまだ使われていたのだ。
地震で水道が壊れても井戸は使えるしね。

人間生きるのに水は必須。
長く歩いていかないといけないところの人は、井戸掘るのもいいがみんなで協力して上水路を作ればいいのに。
井戸掘るのも青年海外協力隊の人がやっている。
結局待てば井戸ができるんだから何もしないのだろうか?
遠くまで水を汲みに行くのが伝統だと言われればそれまでだが、でも汲みに行かされるのはおかーーさんかおじょうさんなんだよ。
なんだかなーーー。

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2023/03/02 07:44
ニホンイチオイシイスイドウスイガノメルトコロニスンデイマス。
アリガタヤー。




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