Nicotto Town


ガラクタ煎兵衛かく語りき


魚と稲作とイヨマンテ




日本人は基本的に草食と魚食です
一般的に 弥生時代から稲作が広まったとして
縄文人との対比がなされますが
彼ら縄文人も日本の土地に定着する以前から同様でした

肉はあまりにも貴重です
アイヌは過酷な土地で生き延びるために 時には羆と対峙しました
鹿や狐や鳥類とも同様です
自らの命を賭して時には命を懸けて削り合いました

そうして様々な反作用 要するに代償を知っていきました
そんな中で 魚は豊富でした もちろん蛋白質という概念を知る前です
一方植物はあちこちに存在していました
アワ ヒエ 豆類 栄養面で劣った穀類
(一般的に弥生人がもたらしたとされる)稲作が日本列島に広まる前から
アイヌの先達は理想的な 草食と魚食による生存を 寒く限られた地域で続けていました



弥生人がもってきた稲作という革命は
ここ 日本という狭い地域に(当時としては)爆発的な人口爆発をもたらしました
なにせ 食の面でいう安全保障が果たされたのですから
今でも邪馬台国が何処にあったのかを突き止めるのは容易ではありません
それこそ爆発的だったのでしょう



なんだか南のほうでワンサカやってるようです
たまにこちらに来る冒険人は排除しました
なんせ わけわかんない言葉喋るし 平べったい顔で エライ居丈高で
後で知りましたが そんな私達を ”蝦夷”とか言って敵対視されたようです





ここで 私達の食生活を紹介しましょう
冒頭で触れましたが 草食魚食でございます
その日のために一同が食べ得る以上の魚は獲りません
遡ってくる鮭 シシャモ 西北の方まで行かないと獲れないニシン(これは獲った後干す)
それでも川魚はどこでも豊富でした オショロコマの塩焼きはどこでも喜ばれたました
それと草 北海道の半分を占めるほどの地域に自生する熊笹の笹の子 海藻(若布、昆布)
荒れた畑にはそれなりの穀物しか成ってくれませんが あ あとキノコか
白樺の甘い樹液 これは御馳走
あと たまに空から降ってくる球体(今でいうカプセル)がありました
これについては数か月後 煎兵衛という我々の子孫が説明してくれるでしょう


とにかく私達はその日に食べるだけのものしか獲らなかった
何故?
それでこれまでやってこれたから
そうして神に感謝し 奪った命が神の元に還る事を念じ続け
その気持ちを忘れないために儀式を続けたのだから


たまには飢饉が訪れた
村には全く食料が無くなっていった

生きるために
ひょっとしたら神の領域を
侵すのかもしれないけど

生きるために食べるために
羆狩りを行った

後の世でも歌われている「イヨマンテの夜」である
男衆も腹ペコだった
女衆はのけぞっていた
子供達は死にかかっていた

そんな飢饉のさなか むらおさが決断した
GO!



男衆はやってのけた
女衆は鍋を既に用意していた
子供達は編んだ草鞋のなかから目を輝かせていた


こうして 何の罪もない一匹の大人の羆が四肢を吊るされて
村の中央に運ばれた


焚火はより一層大きくなった
周囲からの歌声は増すばかりだった


「イヨマンテ(熊祭り)
イヨマンテ燃えろかがり火
ああ 満月よ 今宵熊祭り 踊ろう メノコよ
タムタム 太鼓が鳴る
熱き唇 我に寄せてよ」

「イヨマンテの夜」作詞 菊田一夫


この後 熊が解体され 村中のみんなにその栄養が供給された

もちろん村の危機を救ったその熊の話は
村長(ムラオサ)から口伝で現在のリーダーまで繋がっている



稀に飼っていた馬が老衰で死に その(人から比べたら)膨大な肉量は
後にその馬の名を冠した昇天祭りの思い出として永くアイヌたちの記憶に残った
それはイヨマンテとは違う
何というのだろう?



こんなとこかな
しょせん「ゴールデンカムイ」を著した作者とは知識量が違いすぎる
かなわないことは瞭然だろう


こちとら縄文と弥生の多分真ん中にいる
無事に混血を果たしたのだろ

でも少しでも北海道の成立っていうか 
いや 違うな

北海道ってかなり都から離れていたけれど
エミシって嫌われて 怖れられていたけど


異文化を取り入れて独自な文化を成立させ
今じゃ食料自給率は200%以上
こんなとこ 他にないでしょw
ロシアに近いけど
ミサイルはあっという間よ



何を書きたかったかというと
北海道は日本なんです
それだけ





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