なっていた
- カテゴリ:日記
- 2022/05/29 23:08:03
恋とは素潜りのようなものだと彼は言う、
その彼氏は不倫をしている、私はと言えば誰ともつきあってはいない。
きっと恋には自分の年齢に見合った水深のようなものがあって、
若いころの水深はとても浅く足の膝が隠れるのがやっとの浅瀬。
そこでビーチボールやフリスビーなどで遊ぶのが何より楽しい、
気が向けば砂浜に戻って冷たいジュースを飲んだり出来る。
所が人は段々と年をとっていくしそしてかなりめんどうくさい年になると、
本当の恋の深さに気がつく。
そこが海で足がつかないくらいに深くて潜るのには息が続かなくてはならない、
なんてことは本当はわからない。
友達と久しぶりに私は飲んだ、
「もうそろそろ上に上がらないと息が出来なくなるかも」と彼は言った。
そろそろ呼吸しなくてはと彼は言う、
私もその恋の素潜りはあながち間違ってはいないと思ったけれども、
そろそろ息が出来なくなるという恋がある事にはうなずけなかった。
そろそろなんて計算する事は恋じゃないと思う、
ここで激論を交わしても不倫なんかしていること事態、
間違いにきずかない友達には聞く耳を持たないだろう。
不倫が間違いだって言う定義はあくまで相手は結婚しているのだから、
そちらを清算してからなら誰と付きあっても何を言われても問題ないだろう。
恋とはどこまで潜れるかなんて言う事を考えるような行為じゃない、
そんな事をすれば必ず絶対におぼれるはずそんなものは恋じゃないと思う。
誰とも付きあっていない無垢の相手との恋も、
付きあっている人がいる人を好きになってしまう恋も、
結婚している人を好きになってしまう恋もどれも大差はない。
もしもそれが逆の立場ならどう考えるだろう、
溺れるからとか息が続かないからとか心配してしまうくらいの事は恋じゃない。
それを友達に言うと、それはそうかもしれないけど少し違うといった。
最初は純に恋なのだ、どこまでも潜れる。
それがどのあたりで息が苦しくなるかだろうなんて事はまったく考えていない、
だけど水深はある、
だから潜った場所に呼吸出来る場所なんてない。
そうゆう恋をしてはじめて思う、
いつか呼吸が出来るそう信じて潜る。
だから恋なのだと彼は言った。
そんな無茶な素潜りをどこまで続くか私は見守るしかなかった、
いっか呼吸の出来る楽園にたどり着くまで。
かならず・・・
いつの間にか潜っちゃうんだね・・・
まだ息が続いている、もう少し深いところへ・・・と思ったら
とたんに息継ぎしないと危ない状態になっちゃうんだねえ・・・
他人がその恋をどう呼ぼうが、恋は恋なのさ。
わたしはなんとコメしたんだったか?^ - ^
うん、水深を計ってしまうのが恋なのでしょうね。
息つぎは必要なのです、自分の身を憂えて案じるです。
そんな身勝手さをお互いそれぞれ分かっているのも
いいよね。
自分のことより相手を案じて、そういう心の深さを知って
愛に辿りついたら、もう恋はしない?
とは、言えないような。