追悼
- カテゴリ:日記
- 2022/03/11 13:48:15
今年も3・11を迎えました。
あれから11年が経ちますが 今でも鮮明にあの日の風景・色・匂い。。。思い出します。
今来て下さっている皆さんの中には あの当時の私の状況を
ご存知ない方もいらっしゃると思うので簡単に自分の事を
少し話したいと思います。
私の仕事は公共施設の施設管理・運営をしています。
当時は私は仙台にいて 仙台駅付近の県の施設で総合案内の受付嬢をしていました。
あの日震災が起こり 本来の避難所になるはずの学校も被害があり
県より急遽当館が避難所に指定されたため 被災者の方々や避難者の方々を
受け入れることになり対応に追われる毎日でした。
当館のお客さまと近隣施設のお客さま そしてご近所の方々などが避難して来られたので
当日は合計1,000名弱の方が避難されていたと思います。
ライフラインは全て止まり 復旧までもだいぶ日にちがかかりました。
ニュースなども当然情報が入ってこなかったので
沿岸部があんな酷い津波に襲われていた事を知ったのは
何時間か後になってからの事でした。。。
詳しい当日の状況は過去ブログに書いているので
もしよかったらお時間のある時にでも読んでいただけると
幸いです。
東日本大震災から1年
https://www.nicotto.jp/blog/detail?user_id=983757&aid=38031062
あれから2年…
https://www.nicotto.jp/blog/detail?user_id=983757&aid=48603729
あれから4年です。その1
https://www.nicotto.jp/blog/detail?user_id=983757&aid=48603729
あれから4年です。その2
https://www.nicotto.jp/blog/detail?user_id=983757&aid=58845348
6年経ってあの日を思い出す。。。
https://www.nicotto.jp/blog/detail?user_id=983757&aid=63830645
あの3.11から7年が経ちました。
https://www.nicotto.jp/blog/detail?user_id=983757&aid=65789207
明日が来るのが当たり前ではないと知った日
https://www.nicotto.jp/blog/detail?user_id=983757&aid=69875128
11年経っても やはりまだ津波の映像は観られません。
あれから11年も経ったので 私ももう受付嬢ではなく中で仕事をしていますが
転勤で他県にいると 震災経験者として防災や対応について話す事もあり
受講者の方に「辛かったですね」や「頑張ったんですね」など
労いの言葉をかけられると涙が出てしまいます。
避難所として対応をしていて 毎日朝早くから夜遅くまで仕事をしていたこともあり
休めなかったため 両親と連絡が取れたのは1週間後くらいでした。
祖母が沿岸地方の生まれのため 親戚が多く住んでいました。
幸いみんな逃げて命は助かりましたが 家はみんな流されてしまいました。
あとからあとから被害状況などがわかるにつれて被害の大きさに驚きました。
仕事関係の人 そのご家族 そして同級生や知り合いまで
あの津波が飲み込んでいました。。。
目の前で起こったことは あまりにも悲惨で無残で絶望しかありませんでした。
あんな怖い思いや辛い思いはもう誰にも味わってほしくない。
今もコロナやウクライナ問題で苦しんでいる人や悲しんでいる人がいらっしゃると思います。。。
どうか平和で穏やかな日々が過ごせるように切に願います。
2時46分 合掌
※ 今回はあの日を偲んで長文になってしまったので 後日本当にお知らせしたかった あの時に必要だった物などまた記したいと思います。
お疲れ様です^^ あぢーですw
こうして読んでいただいて その日の生の声を聞いてもらって今後に何かしらお役に立てたらいいなと思っています。
震災後は あの日の悲惨な光景や状況 辛さ苦しみなどなど思い出すたびに泣いていました。
私も お仕事の時は避難者などの対応に気丈に勤めていたと思います。
自分でもビックリするくらい気丈に対応 指示していたので意外に自分って強いんだなと思っていました。
ただ 自宅に帰ってくるとそれまでの気丈さは全部無くなり 思い出してはメソメソ。。。
二コタの人達にも優しくしていただき 支えられ 随分助けられました。
あの時見た被災地の状況を思い出すと今でも胸が痛みます。
なので あの時と同じような状況をみんなに味わってもらいたくないと切に願います。
ゆかぽんさんのお嬢さんが福島や仙台を訪れてくれたのを読んで涙が出てしまいました。
周りの人達がそうやって交流してくれたり 慰問に来てくれたりするとすごく嬉しいです。
私たちは忘れられていない。生きていていいんだ。こうやってみんなが優しく寄り添ってくれる。遠くからわざわざ自分たちの為に来てくれるんだから自分たちも頑張ろう。って思っていると思います。
本当にありがとうございます。
(今も泣きながら書いています)
ゆかぽんさんが住んでいた名古屋でも揺れたんですね。
そういえば大阪の方でも揺れを感じたと言っていました。自然ってすごい力ですよね。
カセットコンロは必須でした。ライフラインが復旧するまでの繋ぎには必要です。
後日必要な物を書きますねと言ってから随分経ってしまったので時間を見つけて書くようにします^^
何度も言いますが ゆかぽんさんの優しいコメントがすごく嬉しいです。
嬉し泣きは久しぶりで心が洗われました。 本当にありがとうございます。
先ほど日記を遡って読ませていただきました
長女だけ(約9年前だったかな)学校の部活関係で福島や仙台などを訪れ
現地の中学生の吹奏楽部の生徒さん達と交流をしてきました
犠牲者の多く出た小学校の校庭で皆で『G線上のアリア』を演奏しシャボン玉を飛ばしたそうです
同じ年代の子供たちが沢山犠牲になって長女はどう思ったでしょう
私はあの時名古屋の賃貸に住んでいて長い揺れを感じました
もうTVの前で祈るしかできませんでした
美夕さんの日記は当時の状況が伝えられていて吸い込まれました
大変な思いをされてますね
今は私は尾張地方に住んでますが大きな地震などもなく不気味な静けさです
カセットコンロなどを用意しておこうと思います
いつもありがとうございます^^
タニシさんはあの日あの時はどこにいましたか?
そして 昨日の地震は大丈夫でしたか?
再びあの時の状況を挙げて下さりありがとうございました・・。
いつもありがとうございます。
そうですよね 東京の方も帰宅困難者がたくさんいたと後から知りました。
離れている所でもそうした被害が出るくらい大きな地震だったんだなと
改めて実感しました。
私がいたビルは免震構造で震度7まで大丈夫なんですが そのビルでもすごい揺れだったので
他はもっとすごい衝撃だったと思います。
真夜中に自宅アパートに戻ったら 家の中が誰か荒らした?というくらいグチャグチャでしたが
ものすごい疲れてたのと 本来大雑把な性格なので 真っ暗なのを良い事に
「何も見えない 何も見えない」とつぶやきながらベットに入りましたw
自然災害はもちろんですが 人的災害でもあんな怖い思いは二度としたくないですね。
十数分強い揺れが続いて、もう地球が狂ってずっと揺れが止まらなくなったんじゃないかと思うほどでした。
なんとか見つけたラジオでのニュースもいまいち要領を得ず、東北地方沿岸があんなことになっているということを知ったのは随分あとでした。
こちらは実際は震度5強でしかありませんでしたが、震源地に近い地方での恐怖はさらに酷かったでしょうね。