Nicotto Town


ガラクタ煎兵衛かく語りき


愛子の話


瑛子が学校の帰り道に愛子に話しかけた。
「今度の土曜日、空いてる?見たい映画があるんだけど、よかったら」

愛子は少し考えるふりをして、振り返りながら瑛子に手を合わせた。
「ゴメン!その日はダメ」
瑛子は本能的な感覚で瞬意に気付き、にこやかに応じた。
「こちらこそ急にゴメンね。慶子でも誘ってみるわ」


『瑛子はどこまで感づいているんだろう?あまり、知られたくないな』
愛子は再び制服を翻し、前を向きながら、瑛子と同じ方向にある、
自分の家との分岐点まで来ると、快活に云った。
「ごきげんよう」
「ごきげんよう」

二叉路で左右に二人は別れた。
愛子は少し動揺していた。
瑛子は半分後悔していた。
『ゴメン、愛子、多分私にはまだ』



次の土曜日は、愛子は病院と美容院とカウンセラーとの間を
終日行き来する予定がいつものようにあった。
間隔こそ違え、このスケジュールは愛子がこの世に誕生した瞬間から
継続していた。




愛子はalbinoとして、この世に出現した。彼女の両親の遺伝子は
その表現型にはなんら関与していないことが、当時の複数の科学専門雑誌に、
アノニマス文章で掲載された。可能な限りの彼女の祖父、祖母、
さらにそれらを遡る祖先の遺伝子を探った論文が数年は続いた。
だが、なにも成果は得られなかった。




彼女が通う病院では主に眼科から始まり、皮膚科を経て、一旦
中間的な総合診察を受ける。
次に病院内に併設している美容院で、頭髪、眉毛等の染色管理処理を経て、
同じく併設している部室に常駐している
いつものマインド・カウンセラーと世間話を交わし、
夕刻に近い頃には、最終的に主治医の診察室で予約されていた時刻に座していた。



眼科にて診断された色素の補正を施された新しい眼鏡を試しながら、
愛子は廻りをキョロキョロしながら
モニターをひたすら凝視している主治医の歐先生の言葉を待っていた。


「殆ど、状態は変わっていませんね。大丈夫です。このままで良いです」


愛子は眼鏡の奥に潜んでいる涙腺を意識した。
「ほんとにこのままでいいんですか?」



「幾度の染色による髪のダメージは最低限に抑えられています。
ロドプシンの低減は認められません。そして今回の眼鏡の補正は」


歐医師はモニターから目を離し、愛子を優し気に真正面から見つめた。
「カウンセラーの意見をより重視しました。貴女はこれから幸せに生きる
機会を拡げる時期に差し掛かります。僭越だとは思いますが」


愛子はすぐにその意味がよくわからなかった。
同時にさっきキョロキョロした時に一瞬見かけた、
診察室の壁に掛かっている清潔ではあるが不愛想な鏡の前に、
新しく補正された眼鏡で自らの顔を覗き込んだ。



眼鏡のレンズは最初から度は入っていない。
幼少時からかけていた眼鏡はカラーレンズだけ。
愛子の眼部の色素の少なさを補うために、
他人から不自然に見えないように、透明な物質を巧妙に配置して、
特別に作製されたレンズを病院は今回一歩踏み込んで用意していた。
ふいに歐医師が慎重に、言葉を選ぶかのように、囁いた。
「眼鏡をはずして下さい」
愛子は実は予感していた。いつかはこんな瞬間が来ることを何故か知っていた。
震えがちな両手で眼鏡をゆっくりとはずした。
そして愛子は眼前の新しい世界にすぐさま引き込まれた。
鏡の前には別の、いや、本来の愛子がいた。


歐医師は、今日も何十人との患者を診断してきたが、
この瞬間が自らの医師としてのキャリアのターニングポイントに
なるかもしれないと感じていた。
「いかがですか?」
鏡の前に立ちすくむ、幼児の頃から担当してきた、大人しい子だった、
素直な子だった、ほとんど不満を言ったことがない、可愛い患者、愛子ちゃん。

「もちろん、眼鏡をかけて今まで通りの生活ができます。」
「愛子さんの率直な意見を伺います。」
「綺麗な瞳だと思います」





愛子の目は一見色素が消失したかのように真っ白だった。
一方、さっき歐先生が言った『ロドプシンの減少はない』
という言葉はしっかり覚えてもいた。



18歳になるまで、病弱という言い訳を繰り返しながら、
何度も、いや、何百回もみんなと距離を置いていきながらここまでこれた。
それでも椎子も瑛子も慶子も、みんな優しくしてくれた。
そんな中で、私は本当は劣っているんだと実は一歩退いて歩いていた。



改めて鏡を見た。怖かったけど。
でも、そもそも違和感は最初の瞬間で崩壊していた。
鏡の中の自分の顔は、実はたまに見る夢での自分の顔だった。



愛子は不思議なことに急激に体の中を力が漲ってくるのを感じていた。
『外人?いや、私よ!愛子よ!これが愛子でしょ!』



鏡に映る愛子の瞳は実はalbinoのいわば最高傑作だった。
視覚細胞を奥に宿し、ひょっとしたらダメージを気にせずに、
本来の髪色で生きていける、
何も気にしない、
自分のまま、
あるがまま、
誰のせいにもしない、
誰のせいでもない、
私は私なのだから!



歐医師は数十分間フリーズしていた。
やがて鏡を離れ、再び当初の診療室の椅子に戻り愛子は声をかけた。
「先生?」
先生はまだフリーズしていた。
「今度の受診はいつになりましょうか?」




歐医師は夢から覚めたように、モニターに視線を移した。
「決心できました?」
「もちろんです。これまでの医療行為に感謝します」
歐医師は、長い治療期間を瞬時に思い浮かべながら最後にこう告げた。
「礼はカウンセラーに言ってください。彼女はそう、君なのかもしれない」
意味がわからない。
そして医師は聞き取りにくい発音で、でも確かにそう言った。
「今度は来年でいいでしょう。永い間、眼鏡を強いたのは、
この時のためだったのかもしれません」




夕刻をはるかに過ぎて、支払いを済まし、愛子は病院を出て、
背後に何かを感じて振り返った。
4階のある一室の窓が明るかった。カウンセラーさんが手を振っていた。
愛子は手を振り返して、頭を低く垂れた。そして踵を返し歩み始めた。



明日からの日々を想像すると、思わず笑みがこぼれた。
まもなく私は近所の美容院で、これまでの偽りの髪の色を捨てるだろう。
眼鏡はケースに入れて、とっておきのためまで封印するだろう。
そして
私の真っ白な瞳は
私の真っ白な瞳は
一体誰を見つめることになるのだろう。
わくわくしかなかった。


瑛子、慶子、私は新しい、いや、本来の私となって貴女達の前でいさせてね。
髪は真っ白、瞳も透明(眼鏡はずしたからね)、行動も変われるかもしれない。
そして、前を向いて行こう。何でも言ってちょうだい。
少しでも積極的になれるのかもしれない。
もう前しか見ない。




失踪し、行方が知れない椎子については、やがて時が解決すると思うの。
今はそれしかいえない。
多分、誰も言えないんじゃないかな。
椎子!
椎子!
ずっと大好きだからね!





登場人物


  瑛子
  愛子(今回の主人公)

  歐先生
  カウンセラー


補足
 
ロックミュージシャンでいえば、ジョニー・ウインターと
エドガー・ウインター兄弟そして多分レオン・ラッセルも白子(albino)という
生い立ちを受けて、生き抜いていった。
色素欠落はその程度が様々で、一概に安直な言及は難しい。
他では文字通り色素欠落の為に生涯を盲目という運命を負った人々は
多数存在したし、メラニン色素を体内製造できないが為に夭折、
はたまた紫外線の多い地域で生まれ、
天才とも称されるべき能力を授かった生命体があえなく
その短き生涯を終えたこともあるかもしれない。
色素は個人への刻印なのかもしれない。





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