下手物/ゲテモノ考
- カテゴリ:日記
- 2021/10/24 17:15:55
エリュアールとマラルメ、ショパンコンクール、
九谷焼の陶象嵌と菊花石、ローランドカークと相倉久人、アンリ・ルソー。
今回の散文……いや「惨文」はこんな風に散らかりますのでご容赦を。
まず、詩について。シュルレアリズムの詩は好きです。
一緒にユニット組んだ多国語に堪能な詩人も瀧口修三やジャリを好んでたけど、
そいつはきちんと詩の基本(歴史)を独学で学んでいた。
アタシの場合、西洋の新体詩は文語訳で馴染んでしまったので、
正しく受容・理解してるとはいいかねる。せいぜい堀口大学訳が限界です。
詩を正しく学ぼうとしなかったことが原因でしょう。
エリュアールは確かに好き、ところでマラルメは?
聞かれれば「好き」と答えるが、但し書きがついてしまう。
詩の絶対性を追い求めたであろうマラルメを、私はシュール文脈で捉えている。
コレ、イカンと思うわけです。ワケワカラン=シュールでは思考停止です。
シュルレアリズムはブルトンから始め文学・絵画を一通り眺めたけど、
それ以前の詩に関してあまりにも無知。だから悩む。
次、ショパンコンクール。このコンクールの権威の源というのは、
ロマン派の極致の正統な解釈の伝承と発展なんだと思う。
時折異端のピアニストが現れ、そのたびに騒ぎになる。
中村紘子の随筆で「バッハをショパンのように弾いてはいけないのか」という、
古典を継承するうえで欠かせない話題を扱ったものがあります。
結論は簡単、ダメに決まってる。それが伝統であり古典の継承ですから。
ところで、芸術性という定義不能な概念がございます。
人を感動させる普遍性といえば納得する人が多いのでしょうが、
そりゃとんでもない誤解でしょう。ここでマラルメに戻る。
詩を書くもの、そして詩を鑑賞するという行為を含めた『詩世界』では、
詩の創作者・受容者こぞ(精神の)貴族でなければいかん。
敷衍すると、芸術を解する「貴族」とそれ以外に人類は二分できる。
ここの「貴族」とはスノッブやインテリとは無縁の、真の知的存在です。
このテーゼを正しいと思いたい気持ちが強い(曖昧ですが)。
私の好きな知性主義といったものの描く理想像に近いからです。
美学的話になる。美の究極とはピラミッドの頂点なのか?
そんなことないと思う。美の究極とはすべての美を内包し、
誰が気づかなくても内側から光り輝く無限の可能性であってほしいから。
イメージとしては正四角錘を逆に置いたかんじ、
上に行くほど豊かでジャンルを超越し多義的になっていく。
だから芸術ってのはジャンルを超えてしまう宿命も背負ってる。
話変わって、九谷焼の杯にも使われる陶象嵌という手法は、
生地に細かい模様をつけるため削り、別種の土を埋め込んだり、
釉薬を変えたりすることで、精緻で鮮やかな模様を生み出す技法。
どれも見事です。一寸足らずの器の内外に金銀瑠璃翡翠琥珀……
集め始めたころは貴金属も宝石も本物だと思ったくらい。綺麗なんです。
技法を知った後も、軽んじる気はサラサラない。大切にしてる。
さらに飛ぶ。叔父の家の庭石は専門家の仕事でして、応接間から見える位置に、
菊花石というふれこみの岩が配置されています。
某政治家だか財界人の別宅作庭中、余ったので持ってきたというふれこみ。
訪れるたび自慢されそのたび感心し褒めるわけですが、
どうも胡散臭い。叔父夫婦が若い頃建てた家なので若僧・素人扱いし、
適当な石を菊花石として納品し高い金をとったのかも、と思ってる。
さて、陶象嵌も叔父宅の菊花石も「まがいもの」であるかもしれん。
だが所有者にもたらす歓びは真実、掛け値なしのものであります。
「まがいもの」でも人は感動できる。では、芸術ではないのか。
この惨文の題名「下手物」とは現代の「B級」の類義語です。
名手が作ったのではない。仕事が粗雑。安物、大量生産品、失敗作。
「ゲテモノ」という言葉は美術界一般では「偽物」以下の扱いでしょう。
さてさて、本道を外れ理解至難のものを「ゲテモノ」と呼ぶこともある。
日本の50~60年代前衛シーンでは『エログロナンセンス』という語があったが、
『グロ』は今日的な猟奇趣味よりも『グロテスク』(異形/畸形)に近かった。
ロートレアモン、グレングールド、岡本太郎あたりにもこの語が使われた。
そしてローランド・カークにも。SJ誌の久保田二郎氏がそう蔑んだ。
カークは63年に来日し、確か『ジャズギャラリー8』に現れた。
演奏する気満々だったが、ブッキングもやっていた司会者は断ったという。
それが相倉久人。相倉は当時、カークの音楽への熱意は分かるとしながらも、
三本の管を同時に吹く音塊も、トレーンの1音にさえ及ばない、と批評した。
久保田二郎と相倉は全く方向の違うジャズ評論家ですけど、
この二人がカークをジャズから意識的にオミットした理由は似ています。
端的に言えば、ローランド・カークはジャズではない、という意識です。
久保田氏は彼を完全否定したが、相倉はさほど否定的ではなかったように思う。
だが今日、姿勢の異なる彼らの一致したカーク評は「正しい」といえる。
カークは、ジャズを出自の一つとする音楽家だ、というのが正統でしょう。
カーク好き=ジャズ好きとはならない。マイルスやパーカーとは話が違う。
ひどい言い方だが、カークは「ジャズ界」においてグロ、ゲテモノだった。
だが彼の音楽の価値と、ジャズ世界のヒエラルキーにおける位置づけとは無縁。
下手物を褒める場合「本物」「正統」を理解したうえで褒めろ。
本物や正統を理解できるのは知的存在、一種の貴族だけ。
だから素人はゲテモノをアレコレいう前に、本物に接しなさい。
……90%賛同できる考え方です。残りの10%はといいますと……
素朴派、ブロークン(プリミティブ)アート系画家の一人に、
アンリ・ルソーという日曜画家がいまして、大好きです。
西洋絵画はそれなりに観て本もそこそこ読んだし、
サロンの新古典主義、ドラクロアのロマン主義、バルビゾン派の三派鼎立は、
他の芸術や学問でも頻繁におきる進化過程の類型だとも思っておりますが。
『蛇使い』『夢』『砂漠のライオン』等を眺めると、理屈は捨てる。
ああ、こりゃイッちゃってるよね、そっちの世界の人だよね、
でもイイんだ、イイとしか思えないや……そういう衝動に襲われます。
「アッチの世界にイッちゃっててたまらなくイイ」というのは非論理。
見ればわかる通り、どの絵もゲテモノと思われて当然、でもイイ。佳い。
精神疾患の患者の実物のメモを見たときと同類の衝撃が消えないんです。
……ああ、散らかった。散らかりすぎて片づける気がしない。
もう一つ『障害』と芸術/社会共同体についても考えたけど、今回はパス。
でもこの一週間、下手物について妄想を深められ楽しかった。疲れたけど。