『してございます』時代の背景
- カテゴリ:日記
- 2021/10/20 18:30:28
聞き慣れぬ話法に目くじらたてるのはバカで保守的な老醜の証拠。
そんなわけで近年ひんぱんに聞く『…してございます』に噛みつきますが、
背景には真に現代的配慮もあるのだろうなー、と愚考します。
「用意してございます」「先ほど書式でお配りしてございます」……
こうした話法を頻繁に聞くようになったのは……2005年前後かな。
公務員が説明会や相談会で多用するので、本気で馬鹿にしてました。
ですが調べると分かる通り、近代文学の大家もこの表現を使っている。
戦後作家の誰かもインタビュー等でこの「…ございます」を使っていた。
初耳だったので、インタビュアーを少々軽んじているのかなとも思った。
昭和30年代生まれの方がいたら(いないか)確認したいのですが、
おそらくこうした「ございます」、学校教育ではアウトに判定され、
「おります」と添削されたのではないでしょうか。そんな記憶もある。
さて確認。「おる」は謙譲、「ござる」は丁寧語に分類される。
「用意しております」だと、発話者は聞き手にへりくだっているのであり、
「用意してございます」だと単なる社会生活一般の丁寧語と解釈される。
ここが重要なんだと思います。むやみにへりくだるな、という考え方。
私なんぞは通常運転で丁寧語的に「おります」を連発しちゃうけど、
これは望ましくない、間違っているという考えが一般化している。
我が国の誇る長寿「お笑い」番組、国会中継を聞くこともあります。
近年、答弁の役人は明らかに「おります」を避けるようになりました。
「現時点ではそのように認識してございます」等々。
サ変の複合動詞に「ございます」がついていて無性に気持ち悪い。
上の表現なら「そのような認識でございます」と言い換えてほしい。
「鋭意準備してございます」「各省で共通してございます」エトセトラ。
役人ばかりではない。日本全体が「不要」な謙譲を誤り/悪弊と捉えている。
気になり始めたの2005年頃だよな……どんな年か思い出してみた。
おお、郵政民営化を推したプレスリー好きの宰相だったころか。なんか納得。
あくまで私的なものですが、謙譲=教養・品性という等式で育ったので、
謙譲表現の少なくなる現状に違和感と危惧を抱いています。
上で「不要」と表記したけど、本当はそう書きたくない。「過剰」でもない。
謙譲表現は当然である、人の倫(みち)であると騒いだら、
同意する人は稀有でしょう(いないわけではない、というのが困りもの)。
人権思想の拡大、多様な個性の尊重、国際化には謙譲の姿勢が邪魔なのか。
次世代の日本をリードするIT系の有名人や財界人というのは、
傲慢に見えるくらい自信に溢れ断定的なもの言いをするのが常ですね。
21世紀の日本人像として、彼らが見習うべき手本になっていくのでしょう。
脱線すると「…と思います」という表現への敵意と否定も尋常ではない。
作文や面接で使ってはいけない幼児語No.1のように貶められています。
これも病的に感じるんですが、そう思う人もますます衰退している。
謙譲や謙遜というもの、この国の本質に関わると思ってたけど、
社会全体のコンセンサスによって定まったヒエラルキー以外で、
謙譲表現を用いるのは罪である、なんて時代も来るのかしら。
第一音節の強拍化、確か……言語一般の変化の定石でしたっけ?
言語の平易化というのはありそうですね。帰化人/移民増加に伴って。
あと、外来語を原語同様に発音/表記していく風潮もありますね。
明治以降の日本の共通語は一種の人工語なんだから、
ツールとしての言語の利便化に文句言うオマエがおかしい、とも言われました。
確かに規範/標準を求めると自分の狭い価値観に従っちゃうわけですし。
なんでも語頭アクセントにしがちですね。
わたしはNHKと役人が好む語頭アクセントだと思ってましたが、
普通に、ベルリンとか『潮騒』とかが語頭アクセントでびっくりしたことがあります。
役人はもしかしたらわかりやすいように言っているのかもですが、
ニがつ、シがつ、と二月や四月を使う。
うがった見方をすると、ユースケ様のおっしゃる問題と、
この発音の問題も含めて、
「やさしいにほんご」にしたいのかもしれません。