Nicotto Town



『臨済録』にまつわる随想


この一冊についてなら幾らでも書ける。
いや正確には、無限に妄想の翼を広げるよすがとなってくれる。
『臨済録』は私にとってそういう一冊。

Wikiの臨済義玄のページ、まるっきりトンデモオモシロ坊主の紹介ですね……。
じゃあオマエ書けと言われても困るけど、真面目に努力して表現すると、
自由/克己/自立/自律といった心の『相』のありようを大切にした人、かな。

衒学趣味甚だしき私なので、まわりくどい話をしてみましょう(だから楽しい)。
岩波文庫から昔出ていたのは朝比宗宗源の訳で、アタシは最初にコレ買った。
朝比奈氏の説話を聴いたことがある。生臭坊主の代表としか思わなかった。

だが訳文には勢いがあり、臨済や弟子たちの人となりが生き生きと伝わる。
後に入矢義高が訳しなおした。買った。はりゃりゃ、けっこう違うね。
註には頻繁に「……とする解釈は誤り」などと出てくる。どっちが本当なの?

入矢氏が翻訳を担当する契機となったのは佐々木指月の依頼だったという。
ははーん、英語圏に臨済禅布教して儲けるためのツールに使う気だったか。
ただし、入矢訳は熱気こそ落ちるが誠に几帳面かつ学術的なものです。

臨済の本質を伝えるヴィヴィッドさ・面白さは朝比奈訳のほうが上。
学問的に正統で誠実、ある意味わかりやすさも備えてるのは入矢訳。
入矢氏の後書きの一部(大意)を引用します。教養とか知性って、こうありたい。

================================

(「仏の教えの一切は全て仏性を説き明かすものでは?」という問いに、
臨済が「荒草曾つて鋤かず」と答えた部分について)

「そのような道具では無明の荒草は鋤きかえせはしない」と訳しておいたが、
主語を臨済ととると「無明の煩悩(荒草)を除いたことはない」となる。

「妄想をも除かず、真をも求めず、無明の実性こそは即ち仏性」という、
永嘉玄覚の趣旨に一致した、相手の教条的仏教観を一気に砕く言葉となる。

この理解は十分成立可能で魅力的ではあるが、
質問者である座主の問題意識が初めから低次元である以上、
それに対する臨済の答えが高次のものでは通じないと考えたのである……

================================

荒草は大悟に至らぬ連中の捨て去るべき煩悩なのか、万人の宿命的摂理なのか。
どっちともとれる、とってよい、とらなきゃツマラナイ。
たった四字でもコレですよ。そこら中が妄想=荒草の宝箱です。

序は四字ずつの古詩型を守っており、訓読文の音読は誠に気持ち良い。
メインである示衆の章は四/六/八が基本。臨済の融通無碍の説法が炸裂する。
上堂して道流(門下の僧)に語る臨済の姿がありありと妄想できる。

どの頁……いや、どの行にもスッゲエ卓見(形容重複)が輝いてます。
Wikiにも出てますが、仏性・仏法の肝要というものは何かと問われ、
雁首並べてそこに座って聴いてるオメエら、それこそが仏だと言い切る格好良さ。

臨済の幼少期については分かっていない。おそらく不幸な子供だったんだろう。
『言下に大悟』した瞬間の臨済の心境ってのは、実は誰でも知ってるはず。
『大悟』は日々の刹那に無数にある。悲惨も同じ。それが現世である。

無常観は哲学でも思想でもなく学問の対象でもない、情動の一種だという、
マコトに理路整然とした思想が主流になっていった80年代の後半、
アタシゃこうも考えた。うーむ、源流たる仏教も、実は宗教と無縁なのでは?

仏教≠宗教と言い出しても命までは狙われないであろう。
仏教は世界認識の手法の一つであり、自然科学や物理学、数学と同類である。
カントールは無限を考えた。シッダールタは無を考えた。まあ、大差ないでしょ。

……あらゆる妄想を生み出し繋げてくれる触媒みたいな一冊なんです。
禅の公案衆とか禅のススメとかはイカガワしさに溢れてるものも多いけど、
『臨済録』は別物。新約聖書同様、死ぬまで楽しめる一冊です。




月別アーカイブ

2024

2023

2022

2021

2020

2019

2018

2017

2016

2015

2014


Copyright © 2024 SMILE-LAB Co., Ltd. All Rights Reserved.