きらきら、ぜーんぶ佐倉の縄文展 2
- カテゴリ:タウン
- 2020/11/09 14:51:15
仮想タウンでキラキラを集めました。
2020/11/09
集めた場所 | 個数 |
---|---|
おしゃべり広場 | 7 |
ペット海浜公園 | 4 |
きらきら、おしゃべり、ペット海浜、黒系
(1から続きます)
佐倉市立美術館へ。大正時代に建てられた旧川崎銀行佐倉支店の建物の保存と活用を考慮した施設だという。そのエントランスホールで「ぜーんぶ佐倉の縄文展」が開催されている。
エントランス部分がレンガ造りの当時のもので、大正の洋風な、それでも歴史が感じられる静かさと、縄文時代というとても古いもの、おそらく日本特有のものたちが出合っていることに、やわらかな感動があった。これらは時代も場所も隔たっているのに、とても心地よい空間を作り上げている。
「佐倉市は、印旛沼水系の豊富な水資源を背景に縄文文化が発展した地域です。
今年は井野長割遺跡の国の史跡指定十五周年にあたり、これを記念して、佐倉市内の発掘調査などで出土した縄文時代の優品をテーマごとに展示します。
土器や土偶などの造形美や自然のとのつながり、人々の交流とモノの移動を考える機会としていただき、「縄文時代の佐倉」に思いを巡らせてください。」
とチラシにはある。入口で、展覧会の三つ折りのリーフレット、井野長割遺跡について書かれた二つ折りのリーフレットをもらう。どちらも写真を使った解説がくわしく、わかりやすい。井野長割遺跡は小学校建設の造成工事の折に発見されたもので、縄文時代後期から晩期(約四〇〇〇年─三〇〇〇年前)の村の跡だそうだ。展覧会は、この遺跡と佐倉の他の遺跡、宮内井戸作遺跡、吉見台遺跡などからの出土品が並ぶ。
会場構成は、 「1 ドキドキ!縄文の造形」「2 佐倉土偶コレクション」「3 縄文アニマルズ」「4 遠い海へのあこがれ」「5 縄文人の美と楽しみ」の五つのセクションにわかれている。
1の造形に焦点をあてた展示では、「手燭形土製品」(吉見台遺跡)の、器部分のちいさな籠のようなものと、柄の手に持つ部分の装飾にひかれた。透かし模様、アラベスクといいたくなる、植物の蔓を装飾的にしたような、からみあった、豊かさ。見た目にはさほどわからなかったが、全体に朱色に塗られていたとある。二〇一八年に東京国立博物館で開催された「縄文展」にも出品されたとあったので、家に帰って図録をみたが、炭の跡などもないので、用法はわかってないようだ。祈りに関係があると推測される。灯ったような、それらが見えない形となって、空にのぼってゆく。
2の佐倉の土偶たち。チラシなどでもミミズク土偶が目玉的に載っていて、実はそれで興味を持ったので、ひそかに楽しみにしていた展示だった。期待にたがわず、というよりも、予想よりもはるかに、土偶たちが圧倒的な力をもって並んでいた。顔の形がミミズクのよう、丸くいくつも結われた髪、丸い眼と口などのミミズク土偶(吉見台遺跡、宮内井戸作遺跡)、頭が山のように三角形をしている山形土偶(おもに吉見台遺跡、佐倉でもっとも多く出土される土偶だそうだ)、手足のない縄文時代後期の筒型土偶(宮内井戸作遺跡)など。
東北で作られた遮光器土偶を模倣したのであろうと推測される土偶たちもあった。
これらがまとまって展示されているので、見応えがある。実は土偶には惹かれるといえば惹かれるが、どこか怖さを感じることが多い。怖さというより、畏れといったほうがいいのか。縄文土器の多くは日常で使われているものたちだからか、あまりそうした気持ちはもたない(大きな甕のようなものは、埋葬などで使われたらしいが)。土偶の用途などはわかっていないが、妊産婦を現したものが多いこと、殆どが故意に壊されているので、祈りの儀式に使われていたのであろうとはよく言われる。そこには死に関する、いや、生と死への、痛切な祈りが込められてある。それらがわたしが土偶に畏れを感じさせるのだろう。
だが、ここに展示されている土偶たちからは、畏れというものの気配はあったが、それを怖いと思ったことがなかった。縄文土器たちに感じる、温もりに似たものたちを感じたのだろうか。装飾に魅せられたというよりも、その姿たちが愛しいと思った。勝手な見方だが、彼らが優しく受け入れてくれているように感じたのだ。それも祈りなのだけれども。山形土偶、ミミズク土偶。慈愛のやさしい光が内にこもっている、そんなふうに。
3がイノシシや犬などの動物、縄文アニマルズの展示。犬は狩猟のパートナーだった、イノシシは力強い、狩の対称だった。そんな思いが込められたものたちなのだろう。
4は「遠い海へのあこがれ」。佐倉は印旛沼があるが、現在は海からだいぶ、十キロは離れている。約八千年前は縄文海進により海だったが、約五千年前の縄文中期には寒冷化で海面が下がり、佐倉では海は遠いものとなっていたとか。展示されていたのは、アワビ形土製品(宮内井戸作遺跡)、海獣形土製品(吉見台遺跡)など。海へのあこがれ、だったのだろうか。記憶のなかに海があったのだろうか。
5は「縄文人の美と楽しみ」として、耳飾りなどの装飾品や、使い道がよくわかっていないミニチュア土器(吉見台遺跡)、スタンプ形土製品(吉見台遺跡)など。
そのほか、最後におまけとして、約二五〇〇年前に終わった縄文時代より後の、弥生時代から平安時代にかけての人面の展示があった。リーフレットにはこうあった。「(弥生時代以降)、有力な集落は周囲に堀を巡らせ戦に備え、さらに古墳時代になると力を備えた首長は大和政権の支配下に加わります。歴史は中央集権国家の成立へと」……。
展示されたものたちは、埴輪や人面付土器(六崎大崎台遺跡)など。後者の顔に土偶などの面影を感じたが埴輪との過渡期にあたるもののようでもあった。「令和という時代に生きる私たちも歴史の延長線上にいるのです」という、リーフレットの最後の言葉がしみた。いま、わたしが縄文にひかれるのは、そういうことなのだ。
美術館を出たのがお昼すぎだったので、近くで昼食を取ってのち、国立歴史民俗博物館へ行った。
だが、こちらに関しては、また後日、機会があったら触れることにして、ここでいったん筆を置きます。
(この項終わります)
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