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五飯田八宝菜の語学学習日記


50: ゴタの日記 3月9日(月)

 3月9日(月)

ゴタの父は、中学を卒業すると、志願兵として軍隊に入りました。
昭和18年の春でした。召集令状が来てから入隊したのでは、
上官にいじめられるといううわさを聞いていたので、
志願で入隊しました。

志願すれば下士官候補となり、配属されれば伍長。二等兵ではないので
鬼軍曹からのいじめはない。
と父は語ってくれた。

父の配属先は鹿屋基地で、当時はすでに、日本軍は劣勢で鹿屋基地は
陸軍と海軍が統合された陸海軍基地となっていた。
そのため、一式陸攻(陸軍機)や、月光(海軍機)が同じ場所に
整列していた。もちろんゼロ戦もあった。

父は通信兵の道を進んだので自分では操縦せず、双発機後部に搭乗した。
ただ、この通信機は、敵機と遭遇すると、真っ先に狙われる危険な
飛行機だったようである。

鹿屋基地から、知覧基地への転属命令が出ることがある。
知覧は、ご存じ特別攻撃隊の編成基地。飛行機だけでなく
魚雷に搭乗して、そのまま敵艦に体当たりする自爆する
人間魚雷「回天」が出撃したのも知覧であった。

この話を聞くたび、よくぞ、父は知覧に転属されずにすんだと思う。
そう父に感想を言ったら、

 「いや、実は一度、知覧に転属になったのだ。ただ、その後
  すぐに通信兵が鹿屋で不足していたため、呼び戻されたのだ。」

そんなことを聞かされた。

 「ああ、お父さん、まさに、一芸は身を助ける、だね。」

そのまま知覧に残っていれば、この世にゴタは生まれていなかった。

鹿屋基地は、終戦に3か月先立って、平和台に引っ越した。
敵機による空襲が始まったからである。

そういうわけで、父が終戦を迎えたのは、福岡の平和台。
終戦時の父の階級は軍曹。
ただしマッカーサーによる軍隊解散命令のため、
まったく無意味な「軍曹」となった。
尚、その階級章も軍刀も残務整理により返納したという。
ああ、残しておけば、いい値段がついたのになあ、とも思うが・・・

ここで、残務整理のため、終戦後もしばらく残っていたが、
時折、各地に赴いて、荒れ果てた焼け跡をみて、大工になろうと
決心したのだという。



残務整理が終わり、大工の見習いをするため、大阪に出てきた。
このときの大工の棟梁の娘が、ゴタの母である。
ゴタは、父の抜かりない性分にも感謝しなければならない。
ゴタがこの世に出現するためには、父のこの性格があったればこそなのだから。

母からも、戦時中の話はよく聞かされた。
当時、ゴタの家は高射砲陣地のちかくにあり、そのため
空襲がたびたびあった。空襲警報がなるたび、
みんな防頭巾をかぶって、防空壕へ逃げた。

ある日、母は、ぐずぐずしていて防空壕へ逃げ遅れた。
すでに、防空壕は閉ざされていて、
母は入れてもらえなかった。やむなく家に戻って、家の中でおびえていた
という。
やがて、空襲警報が解除されて、母は外へ出た。そして、さっきの
防空壕へ行ってみたという。

そしたら、何と、B29の爆弾が防空壕を直撃して、中にいた人たち
全員が焼死していた。

母はぞっとしたと言っていた。
ゴタはその話を聞いて、「ぐずぐず怠慢」

なことも人生には大切なものだと思うようになった。

母の怠慢のおかげで、ゴタはこの世に生まれてこれたのだから。
  






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