Nicotto Town


五飯田八宝菜の語学学習日記


ゴタの日記2014年6月22日(日)5

6月22日(日)5

  入場料は50円。
  出来る限り、多くの人に見てもらいたい、そういう意向が伝わります。

  1945年8月6日、
  テニアン島を午前2時45分に、エノラ・ゲイ(B29)は、
  リトル・ボーイ(原子爆弾)を積んで、離陸しました。
   
  午前6時30分、四国上空に達しました。
  リトル・ボーイの安全プラグが抜き取られました。

  しかし、日本軍のレーダー照射にあい、回避のため、高度を上げた。
  その後、日本軍戦闘機が攻撃をかけたが、これも回避。  

  午前7時、エノラ・ゲイの先行機、ストレート・フラッシュ号
  (同じくB29)が広島上空に到達。
  このとき、エノラ・ゲイは、四国沖を航行中。

  ここで、原爆投下目標が、広島に定められた。
  先行機・ストレートフラッシュ号から、その旨が
  エノラ・ゲイに無線で、指示された。
    
  午前8時1~3分、日本軍は、広島上空の2機を発見。
  午前8時9分、エノラ・ゲイ、広島市街を目視。
  午前8時12分、エノラ・ゲイ、攻撃目標地点に到達。
  同時刻、爆撃手、フィアビー少佐が、投下目標を相合橋にセット。

  午前8時13分、2機を発見した日本軍は、各機関に警報を発信。   
   
  午前8時15分、機長ティベッツ、投下命令を発す。
  午前8時15分17秒、原爆投下。
  約43秒後、高度600mの上空で、爆発。

  当時の広島市の人口、35万人。

  約半数の人が、亡くなった。
  被爆者は、高度の爆風熱で、水分が無くなった状態で、死亡。
  爆心地から、2キロメートル以内の家屋は、爆風で、すべて、吹っ飛んだ。

  水道管が破壊されたため、多くの人が、水を求め、川に飛び込んだ。
  爆発時の地上温度は、3000度~6000度。屋根瓦が溶解した。

  生き延びた人も、ついには、数ヶ月後に亡くなったケースが多い。
  身体中、ケロイド状態で。

  この資料館に来たひとは、みな、思うことでしょう。

   「絶対に、地上から、核兵器をなくさなくては、なりません。」

  資料館の窓から、灯火が見えます。あれは、地上から、すべての
  核兵器が無くなるまで、消さないのだそうです。


  資料館から出て、原爆ドームに行きました。
   亡くなられた方々の冥福を祈りました。

   https://www.youtube.com/watch?v=2iennv9YhlA


  【午後6時30分、
   タクシーの契約時間(午後7時終了予定)のため、駅へ出発。】
   
   
  帰路は、こだま(各駅停車)です。

  こだまの欠点は、車内販売がないこと。
  せめて、コーヒーの一杯でもほしかったが。

  がまんせよ。ゴタ上等兵。
  広島で死んだと思えば、コーヒーぐらい、何だ!

  まあ、何とか、午後10時過ぎ、新大阪に帰って参りました。

  ここから、タクシーに分乗して、ANAクラウンプラザに戻ります。
  ただし、ゴタは、ここで、ガイド料金を収受して、古川橋に帰りました。

  家に着いたのが、午後11時20分。
   
  遅くなりました。これまでの仕事で、一番遅かった時間は、深夜0時。
  まだましです。

  明日は、ゴタ事務所、お休みにしまーす。

  
   おしまい
   ゴタ

  
PS: 爆心地という英単語を知らず、epicenter を使っていました。
    みなさん、hypo center とおっしゃっていましたので、調べたところ、


    震源地: epicenter
    
    爆心地: hypo center
   

でした。今のゴタの実力では、ガイド試験に、落ちるどー。勉強しいや~。
   




月別アーカイブ

2024

2023

2022

2021

2020

2019

2018

2017


Copyright © 2024 SMILE-LAB Co., Ltd. All Rights Reserved.