マモ物語:1993~
- カテゴリ:友だち募集:30代以上
- 2019/10/09 04:39:30
休職に入ったマモに、長い引きこもり生活が待っていた。宅(うち)でのお仕事は、1歳のウタとのお遊び&絵本です。すっかりイクメンとなったマモは、ウタにどっぷりです。ウタも期待に応えて、難しい言葉も理解するようになりました。おじいちゃんに“知恵におぼれてる”と言われるのも、すべてマモの責任です。申年(さるどし)も後半、このままではいけないと、不二家レストランのキッチンでのアルバイトを試みるも、酉(とり)年・正月に、三か月でダウン。
仲人の部長や営業課長から、退職して、新たに始めるよう促され、会社の机も整理したものの、退職には至りません。そんな時、マモ主導で、出身大学員会を開催した時の先輩が、総務部長となってマモを救ってくれました。同じ事業部内ではありますが、部門を超えた異例人事で、生産管理課・EDP室への異動です。
クレーム対応で、共に奮闘したヤダ課長の部下になり再出発です。LANファイル、LANプランの学習から、徐々にcobollのプログラミングの世界へ進展。EDP室は、40代の上司二人に、30代の先輩社員、40代であろう女性社員とマモとで構成されています。上司二人は、係長と調査員(課長代理相当)とで、調査員のアブさんが、実質の室長といえます。皆、優しい人たちで、年間4日のみの有給休暇でもやっていけました。
変化が訪れたのは、戌(いぬ)年の3月です。ホワイトデイのプレゼントを買い求め(家内にはピアス、、ウタにはセーラームーンの何か)池袋東武百貨店、西武デパート…、キャラクターはスーパーにと気づいたときは、赤羽の西友の閉店時間でした。近くの文房具店で、キャラクターの塗り絵本を5冊程度買い、再度、電車に乗るも、すっかり躁状態になっていました。
日進駅を降りても、歩みがカメ、全く進みません。角を三つ曲がり、駅から300mほどでダウン。電信柱を背に座り込み、
「たすけて~、たすけて~、・・・・」
すると、近所の犬が「うぉ~ン、うぉ~ン…」、と遠吠えを。
飼い主の奥さんが、「○○ちゃん、どうしたー、なんなの?」と出てきて、マモを発見。
「048- ○○○-○○○○へ電話して、家内をここへお願いします。」
「はい、048- ○○○-○○○○ですね」、とノウチさんは自宅へ。
しばらくして、家内が自転車で登場。
「え~、車でなく、自転車?もう歩けないよ」と、マモ。
「車で送りますよ」と、ノウチさんの思いやりが…。それに甘えて宅まで送ってもらいました。家に着くと、学生アルバイトが苦労して包んだ絵本をウタがびりびりと破り始めました。ア~学生さんが苦労したのに…(*_*)
すっかりコントロール不能となったマモは、あくる日半休して、秋山先生に受診です。一目見て、入院と判断した秋山先生は、家内を呼ぶように手配します。具体的には、会社の看護師さんにゆだねるわけですが、マモもEDP室へ行き、上司に報告をし、ロッカーにあるひげそりや歯ブラシをバッグに入れて、再び保健室に戻りました。こういう時に限って、家内がつかまらず、厚生課長に任せて看護師さんとふたりでタクシーに乗って、都立松沢病院へ向かいました。
外来で診察を受けるも、措置入院に決められ、D-40病棟の個室へ入れられました。診察中から記憶がなく、4・5日して目を覚ました時、閉鎖病棟に入れられていたことに気付いたのが実際のところです。
この時家内のお腹には、マリがいて、ウタは幼稚園への入園が、控えていました。
大変でしたね
その数年前から、同様の仕事をしてる部署があったので、
その仕事が大変だっただろうことは想像できます
そして、まだまだ仕事が最優先の時代であったと記憶しています
もちろん、「心の病」なんて優しい言葉はなく・・・冷たい「精神病」
医療関係者でさえ、偏見に満ちた状況が多かったのではないかと推察します