前日の御朱印廻り
- カテゴリ:日記
- 2019/10/06 00:39:42
杉本寺
坂東札所の第1番です
天平6年(734年)行基が十一面観音を安置して創建したのに始まるという。文治5年(1189年)堂宇が焼失しているが、このとき観音像は自ら本堂から出て、境内に避難したと伝えられる。『吾妻鏡』によれば、中世には大倉観音堂と呼ばれ、文治5年(1189年)の火災時には別当浄台房が炎の中から本尊を持ち出し無事であったという。同書には建久2年(1191年)源頼朝が当寺を参拝し、修理料を寄進したとある。
背後にはかつて杉本城があり、足利方の武将で鎌倉府執事を務めた斯波家長(?-1337
- 本堂(観音堂)
- 寄棟造、茅葺、方五間(正面側面とも柱間が5間)の密教仏堂である。棟札から延宝6年(1678年)の建立と判明する。堂内奥には本尊として3体の十一面観音像を安置し、他に前立十一面観音像、新十一面観音像、観音三十三応現身像、毘沙門天立像、地蔵菩薩立像(2体)などを安置する。
- 十一面観音立像(3体)
- 本尊として3体の十一面観音立像を安置する。中央の像(像高166.7センチメートル)は寄木造、漆箔仕上げで、円仁(慈覚大師)作と伝承され、衣文に平安時代風を残すが、鎌倉時代に入っての作とみられる。中尊の左(向かって右)の十一面観音立像(像高142センチメートル)は寄木造、漆箔仕上げで、源信(恵心僧都)作と伝承されるが、実際の制作年代は鎌倉時代である。右(向かって左)の十一面観音立像(像高153センチメートル)は行基作と伝承されるもので、素木の一木造であり、3体の中ではもっとも古様で、平安時代末期の作と推定される。作風は素朴で、ノミ痕を残す部分もあり、専門の仏師ではない僧侶の作かと推定されている。中央と左(向かって右)の像は国の重要文化財に指定されている。伝・行基作の十一面観音像は、伝説に基づき「覆面観音」「下馬観音」の別称がある。昔、馬に乗ったまま杉本寺の門前を通ろうとすると必ず落馬したが、蘭渓道隆(大覚禅師)がこの観音像の顔を袈裟で覆ったところ、落馬する者はいなくなったとの伝承から、前述の別称が生じた。3体の観音像は格子戸の奥に安置されており、間近での拝観はできないが、毎月1日と18日に開帳が行われる。このほか、前立十一面観音像は源頼朝の寄進と伝えられるものであり、新十一面観音像は昭和期に当時の住職が彫像したものである。)が拠ったが、南朝方の北畠顕家に攻められ、この寺で自害している。
報国寺
臨済宗建長寺派の寺院。山号は功臣山。本尊は釈迦三尊。境内に竹林があり、「竹の寺」とも称される。鎌倉三十三観音霊場の第10番、鎌倉十三仏霊場の第8番(観音菩薩)、境内には広い敷地に竹の群生が圧巻で和む鎌倉の隠れ名所です。
行基、斯波家長、源信、蘭渓道隆、北畠顕家など、
名を聞いたことのある人物が出てくると刮目してしまいます(笑)
知ることが初めての名刹の紹介ありがとうございます
他は京都・名古屋・他地域の寺社仏閣の選抜で3冊目を終わらせる予定です。