Nicotto Town


五飯田八宝菜の語学学習日記


ゴタの日記 4月5日(木)9

4月5日(木)9


 【明保野亭】

ここも、伏見の寺田屋と同様、坂本龍馬が常宿にしていたところ。
池田屋騒動で多数の同士を亡くした新撰組は巻き返しを図っていたところ。

1864年7月(旧暦6月)、新撰組は
ここに統幕派の浪士が集まっていると聞きつけ、15名が、
会津藩5名の加勢を得て、総勢20名で踏み込んだ。

それを知らず、明保野亭で談義していたのは、長州藩州脱藩浪士たち。
もちろん、逃げまくる、逃げまくる。

浪士1:おら、あっちに逃げるべ。
浪士2:おら、こっちだべ。
浪士3:おら、おみゃあたちと逃げるずら。

  スタコラサッサ 

この逃げまくる志士たちの中に、土佐藩の麻田時太郎が混ざっていたことが、
事件の発端となった。

麻田を追い詰めた会津藩の柴司、追い詰めた相手に槍を向ける。

柴司 : お覚悟あれかし

麻田 : あいや、しばし、待たれよ。
     せっしゃ、謀反をたくらむ浪士ではござらぬ。
     見回りに来ていた土佐藩の麻田でござる。

柴司 :ホンマ?ほな、助けたるわ。

 これにて、一件落着・・・のはずだったが、
 土佐藩主、山内容堂は、麻田を許さず、切腹させた。

  【教訓】 瓜田に靴をいれず。李下に冠を正さず
       誤解を招く行為は慎みましょいう。

 しかし、その厳しい処置が、今度は土佐藩と会津藩との間に
 不公平観を産み、対立しかねない状況となってしまった。

 一方、会津藩側では、藩主松平容保が、柴の行為は、正当な職務質問で
 見逃した行為も正当と判断し、一件落着としていた。

  松平容保が、
 
 「土佐藩がこの処置を不服としているぜ。」

  と知ったのは、このあとだった。
 
 一件落着と言ったあとから、「やっぱり、あかん。」

 とは言えず、困っていたところ、柴の兄は、相談を受けた。

松平容保 : どないしょ?

柴の兄  : つまり、弟を切腹にさせたら、事態が収拾するっちゅうことやな?

松平容保 : そうやねん。


 それから、柴司は、切腹してしまった。

 何か、後味の悪い終止となってしまった。
 この切腹には、新撰組の隊士たちも、胸を痛め、葬儀に参列したという。
 そういう話がある明保野亭。

 ここでお客様とお別れし、業務終了。

 ドライバーさんが、明保野亭にゴタを迎えに来てくれた。


  「ゴタはん、帰ろうや!」

  「帰ろか。」

 ハイヤー契約は、大阪のニューオータニまで送るということだったが、
 お客様のいないハイヤーにガイドだけが乗っているなんて、
 エ-ジェントの人が知ったら、問題になってしまうかも知れません。
 ここは、自主的に、

  「近くの京阪の駅でええよ。」

  「ほな、特急の止まる七条駅まで送るわ。」

  「ありがとね。」

ということになって、七条でドライバーさんとお別れ。
エージェントさんに電話して、業務終了の報告をいれました。

 (厳密にいえば、終了したのは、その15分前だったけど・・・)


おしまい




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