Nicotto Town


五飯田八宝菜の語学学習日記


ゴタぴょんの日記 2019年 4月5日(金)3

4月5日(金)3


 と
  また話が脱線しているが、えーと、そう、金閣寺へ行った話。
  金閣寺を案内するときは、
  一応、禅の話をします。だって、金閣寺は禅寺ですから。

  禅寺では、座禅するときは南に向かって座ります。
  これはそういう習わしなので、仕方がありません。

  さて、禅寺では、修行僧はみな、南を向いて禅を組む。
  すると、南の庭には、動くものがあっては困る。
  禅定の妨げになるからだ。

  池の水も困る。風が吹いて、水面が揺れると、心が集中できない。
  水面に気を取られてしまうからだ。

  だから、禅寺では、お堂の南側には、池がない。
  池の代わりに、白砂を敷き詰めている。
  それをお坊さんが、週に一度、熊手で掻いて、水面を表現する。
  これを枯山水という。

  そういう説明をするのが、金閣寺の方丈北側の庭の前。
  ここで、ご説明開始。金閣は、生活の場だったので、
  周囲を池が囲んでいるけれど、方丈では座禅を組みますから、
  北側のお庭には、水が使われていないんだよ。とかのご説明。

  金閣寺の前身は、西園寺というお寺である。この寺には、
  本堂、不動堂、妙音堂、愛染堂、五大堂が築かれた。
  そして、西園寺公経(きんつね)が住む邸宅も造営された。

  西園寺というお寺が建立されたのは、1224年。
  1397年に西園寺家は、その土地と建物の一切を義満に譲った。
  義満は、畿内の領地を与えたので、実質は領地交換だった。

  義満は、ここに別荘を構え、将軍職を息子にゆずり、
  引退し、別荘生活を楽しんだ。というか、実質は
  引退などしていなかった。
  室町にあった花の御所を、ここ、金閣(北山殿)に移し、
  尚も、権勢を振るい、中国、明国の使節が来ると、ここで接待した。

  その証は、1408年、引退したはずの義満を訪ね、後小松天皇が
  この地を訪れ、21日間も滞在したというから、
  義満の権勢も、大したものだったようだ。

  後小松天皇の書いた扁額が金閣三層目の軒下にかけられている。
  「究竟頂」と書かれているが、「最も高い悟り」を意味する。
  え?
  昭和25年にここは、全焼したのでしょ?
  そう、そのとおり。でも扁額は、無事でした。
  今も、大切に保管されています。
  え?
  じゃあ、今掛かっている扁額は偽物?

  偽物といっちゃあ、気の毒だ。天皇宸筆の扁額が保管され
  復元の扁額が掛けられているということですな。
  ほう?
  放火されても、大丈夫なように?

  何というバチあたりなことを言うのかね。
  あの放火で、お母さんが自殺したんだよ。 
  もう、放火の話はしないでおきましょう。 

  天皇の行幸を受けて、まもなく(その年の5月に没)義満は他界するが
  遺言により、北山殿は、「寺」となった。
  もっとも、生前から出家していたわけだから、いちいち
  遺言しなくても、ここは寺だったはず。

  「金ピカの、この寺を
   寺として見てもらえなかったら、どうしよう?」 

  そういうことを悩んでいたのでしょうか?
  遺言から12年後、ようやく北山殿は、寺となった。
  名を「鹿苑寺」とした。
  
   【安眠宅・・・・安民沢】

   白蛇が祀られています。安民沢(あんみんたく)といいます。
   でも白蛇にとっては、安眠宅。

   つづく




月別アーカイブ

2024

2023

2022

2021

2020

2019

2018

2017


Copyright © 2024 SMILE-LAB Co., Ltd. All Rights Reserved.