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五飯田八宝菜の語学学習日記


ゴタぴょんの日記 2019年 2月6日(水)③

さて、先日の話のつづきです。

釈尊は、菩提樹下で成道したのち、アジャパーラという名のバニヤン
の樹の下で自受法楽しておりました。
その後、ムチャリンダ樹の下に移動し、また悟りの内容を反復していたといいます。
さらにラージャーヤタラという樹の下で瞑想していたといいますから、
4本の樹でそれぞれ1周間、計4週間、悟りの内容を噛み締めていたということに
なります。

そしていよいよ、梵天が降臨して、釈尊に懇願します。

  「どうぞ、お悟りになった内容を衆生にお説きください。」

  「いやあ、しかし、私の悟りの内容は、深淵で理解が難しいからなあ。」

  「大丈夫ですってば。きっと、わかる人もいると思いますよ。」

  「そうかも知れないな。じゃ、教えを説きに出かけましょうかね。」


この瞬間が、私は、大乗仏教と部派(原始仏教、あるいは小乗仏教)の
分かれ目だと思っています。
つまり、悟りにいたる道筋を説くことに重点を置いたのが、小乗仏教で
悟りを得て、伝道の旅をするのが大乗。

大乗仏教では、博愛の精神、慈悲の精神、奉仕の心に重点が置かれます。
これらは、釈尊が直に説かれた記録はありませんが、35歳で成道して
80歳で入滅するまでの45年間の釈尊の弘通の苦労と広い心が読み取れます。

その中では奉仕活動をする阿羅漢は菩薩として描かれるようになりました。
菩薩という概念は、ブッダ在世時にはありませんでした。
なので、一部の人は、非存在の菩薩を生み出した大乗仏教典を
フィクションであり、まがい物であると非難したりします。

しかし、みなさん、どうでしょうか?
我々は、「不思議な力がないもの」を信仰したりするでしょうか?
フィクションにかなり近いものになってしまったけれど、
大乗経典に出てくる、観音さまや、文殊菩薩さんなら信仰できるじゃありませんか。




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