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西郷どん 感想文

西郷どん 第46回「西南戦争」
NHK 日曜夜8時~
▼熊本城の戦い
今回は、鹿児島を発った西郷率いる私学校党の軍勢が、熊本城を包囲するも堅牢な城に阻まれ
撤退を余儀なくされ、戦闘を繰り返しながら九州南部を転々とし、
ついに解散することになったところまでが描かれました。
この日本最後の内戦と言われる西南戦争は、明治に入ってからのことなので史料が多く残され、
各地の戦闘の流れが詳しく分かっているため、全部について書いていてはとても行数が足りません。
なので今回は、ふんわりと書いていこうと思いますw
当初私学校党の進軍の仕方に、船を使い長崎を攻め取るという案などもあったようですが、
結局全軍でまず熊本を目指しました。
熊本での戦闘ですが、最初に攻撃したのは政府軍だったのは確かなようです。
その後西郷は3万とも言われる大軍で、熊本城を取り囲みました。
しかし熊本城は加藤清正が築いた堅牢で有名な名城。
この戦略は拙策だったと言われています。
他にも熊本に隊を置いて、別動隊で東上するという案もあったようですが、見送られました。
どうも彼らの選択は、その後の命運を目指しているように思えてなりません。

▼田原坂・吉次峠の戦い
田原坂は西南戦争の代表的な戦地ですね。
ここでは激戦が繰り広げられ、双方犠牲者を多く出しました。
紀行でも語られていましたが、いまだに現地では当時の銃弾が見つかることがあるそうですね。
警視庁の抜刀隊が投入されたのもここでした。
前回のコメントで私は当時の軍にはまだ士族が多かったと思うと書きましたが、
すでに結構な数の平民が入隊していたようです。
食い詰めた農民の次男三男などが我先にと入ったのかもしれないですね。
なので白兵戦になると彼らはまったくの役立たず。
士族ばかりの私学校党にかなわなかったようです。
そこで編制されたのが東京警視本署(現在の警視庁)から編制された警視隊から、
さらに選抜された抜刀隊が投入されたのです。
抜刀隊には鹿児島の士族が多かったようで、まさに同族相争う状況になったのですね。
中には戊辰戦争で負けた会津出身の士族もいたようですが、数は少なかったようです。

▼半年に渡る戦い
2月15日に鹿児島より進軍を開始し、残った私学校党が宮崎県の長井村・俵野に本営を置き、
西郷が解軍の令を出したのは8月16日でしたから、ちょうど半年転戦していたことになります。
この時に降伏した者も多く、最終的に千人くらいにまで減ったと言います。
当初3万いたと言われているため、かなり小ぶりになりましたね。
まぁ全部が死んだわけでなく、上記のように降伏した者もいれば、
菊次郎のように負傷して戦列から離れた者もいたでしょう。
そしてこの時長井村は政府軍により包囲されていたので、
とでもじゃないけど糸が忍んで来れるような場所ではないですねw
まぁこのくらいはいいかなと思いますが、通常武士の妻は自分が邪魔になってはいけないから、
いくら会いたいからと言って自分の意思で戦地を訪れるようなことは絶対なかったはずです。

▼キャラ変
これまで戦争を嫌い、戊辰の後も引きこもり農業や保養していた西郷が、
何故両軍に多くの犠牲を出すような行軍を決めたのか、やはり疑問に思います。
1つに士族のためということが考えられますが、この戦争で結局士族はほとんど絶えました。
まるで士族を絶やすために立ち上がったようなものです。
ですが政府軍の犠牲者も多く、本気で戦っているようにも思えます。
確かに彼らの戦闘力があれば、勝つこともできたかもしれませんが、西郷自身が戦争経験が少なく
優れた戦略家ではなかった上、彼を取り囲む私学校徒も、司令官としての実戦経験がある者は
そんなにいなかったのが敗因ではないでしょうか。
西郷の意思についてはいろいろと言われていますが、考察していくとどうも、邪魔が入れば
討ち伏せながら、味方が現れれば吸収しながら、東京まで本気で行こうとしていたけれど、
肝心な場面での選択を誤った結果負けてしまった、という結論にたどりついてしまうんですよね。
しかしこれだとやはり、戊辰で戦争に懲りたはずの西郷の性格と矛盾が生じるのです。
西郷が私学校で軍人を養成していたのは、政府に対抗するためでなく、
南下するロシアに対抗するためだったという説もあります。
だとしたら結果的に国力をそぐことになる内戦を起こすのもおかしい話なので、
どうにも西南戦争における西郷の意思が読み取れないのです。
周囲の士族に担ぎ上げられたという説も根強いですが、西南戦争中に残された西郷自身の言葉から、
そうでもないという説も結構あるんですよね。
ドラマではもっと西郷の変化をフォローできていないというか、あきらめてる感じで、
どうして民のためとか戦は嫌いと言っていた西郷が挙兵したか、説明できてませんよね。
そんな設定とかしなければよかったのにねw

アバター
2018/12/18 17:01
西郷は「わしは官軍ではなく、清正公に負けたのだ」という言葉を残したと伝わっています。
そのくらい熊本城は攻めづらい城で、逆に言えば熊本城をとれば
西郷軍にも勝利の目が見えていたかもしれないということになりますね。
そのへんもうちょっとやってほしかったですが、時間が足らなかったのでしょうか。
1人の人物の人生を1年で放映する大河は、1回で数年経過というのは珍しくありません。
ですが転戦しながら半年というのは、結構つらかっただろうなと思わされます。
アバター
2018/12/16 18:42
熊本城での戦闘は放映しなかったですね、ただ天守と城下に政府軍が火を放っただけいっていましたが・・・期待していたのに省略されてました^^;兵の中には、農兵が参加し、また士族同士相争うといっていたので、少し自分の疑問だった部分が解消されたかんじです^^ドラマでは45分なところを半年もたっていたとは驚きです^^;キャラ変の項目のところではいろんな多角的な見方があるんですね^^勉強になりました^^さあいよいよ今日が最終回です^^みのがせません!



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