Nicotto Town



こんな事を書くと誤解されるかもしれない。


でも、此の歳だからかける事が在るので書いて置こう。

あの女の子が死体で見つかった。

昔もそう言う変態は居た。

戦後の混乱期だったし、不法移民が大量に流入した事もあり
戦前、戦中からの其処に住み着いた人達とは別に
見知らぬ若い男がうつろな目をしてうろうろしている時も在った。

今はメールで不審者情報が来るが、
そう言う男は目立つので直ぐに噂になった。

私の近所は同年代は男の子が圧倒的に多かった。

私は幼稚園に行けば同年代の女の子の友達がいたが
近所では幼稚園までは遊ぶ相手がいなかった。

やがて小学校になり何回か親が付いて小学校までの道のりを
教えてくれたがやがて一人で行く時が来た。

で、一人で行ったのだが、記憶では蝶々を追いかけて
全く知らない所に行ってしまった。

大人の目があって、既に学校が始まっている時間帯のランドセルを負ぶった
小学校低学年は目立つので幾つもの目撃が探した親に齎された。

そしてかなり校区から離れた所で靴も下着もスカートも泥だらけで
発見された。

そのなかに大人の男と歩いていたと言う証言も在った。

だが、昼休み位なのかどうなのかは解らないが
私は一人でいる所を発見された。

一時大人の男と手を繋いで歩いている所も目撃された。

だが、生きて解放されて校区とは離れた所で解放された。

誘拐身代金目的ではなさそうだが。

私は生きて(ここに意味がある)帰って来た。

其の後近所の男の子達の家に電話をされて私は
彼らと一緒に登校する事が決まった。

近所は後に其れなりの大学に行った子ばかりだったので
学校でもリーダー格の男の達の集まりだった。


従姉の私より数年したの女の子も学校の帰りに
行方不明になった。

近所を警察も含めて大勢捜したが、
目撃情報が校区より離れた所でも在った。

服装も年代も近所の人達には思い当たらなかった。

其の校区から遠く離れた所での目撃で
もしかしたら解放されるかもと言う切実な期待感も在った。

そして小学校低学年だったので顔も覚えられないだろうと言う犯人の判断で
解放されて帰って来た。

校区より遠く離れた所で一人でいる所をパトカーに発見された。

私には自分に何が在ったのかの記憶は無い。

犬にかまれたと教えられた。
犬に在った記憶はないし、かまれた後も無い。
でも、誰もがそう言うのでそう言う事だと思い込んだ。

周りの誰もがもう其の事に触れなかった。

従兄弟の其の女の子も夕方に成ると
兎に角無事に帰ってきてくれれば良いと近隣の全員が祈る気持ちで
待った。

無事に発見されて大人達は涙を流して喜んでいた。

「殺さないで返して欲しい」
せめて殺さないで返して欲しい。

戦後の日本が其処まで手が回らない時に大勢の見知らぬ不法移民が
大量に入って来て、
日本人の大人達は必死で子供達を守る事を考えた。

だから其の後の私の遊び相手は親を通して頼まれた
近所の男の子達だった。


やがて大人になり私は結婚して子供産んで
育てていた。

会社から夫と連絡が付かないと言う電話が来た。

此れで何度目かだった。

夫に何度目かの女が出来ていた。

「据え膳くわぬは男の恥」と言う馬鹿な事を平然と口に出す夫だった。

私は「其れは死肉だ」と言っていた。
生きているのなら蠅がよって来たら煩わしくて振り掃うだろう。

夫の親にも相談したのだが、自分の夫もそう言う男なので
ほおって置けば良いとの古風な考え。

毎晩ちゃんと家に帰って来るのならと言う自分の親も含めて
周りの大人達の反応。

古風な戦前の女に選挙権の無かった時代の考えがまだ残っていた。

だが、此れだけたびたび会社から緊急連絡が来て心当たりを捜して
会社にすぐ戻る様にと連絡が来ると携帯が無い時代である。

行っている所は余計な事をしたがる連中から耳に入れられていた。

だが相手の女の電話番号は知らない。

私も近所も若妻の所に男が出入りしているのを目撃もしているし
口さがない噂で其の男が何処の誰かも知っていた。

やがて誰かが其の男の妻に噂話として教えに行くのだろう。

愈々会社からかなり緊急の怒鳴り声も混じった会社に
直ぐに連絡をくれる様にと言う電話を貰った。

考えた末に車を持って連絡を着くのは昔の近所で遊んだ
幼馴染の男に連絡を取った。

小学校高学年時代に大喧嘩をしてそれ以来口をきいて無い。

其の後に大人になって偶然在った。

私は結婚して幼い子供を腕に抱えていた。

「幸せなのか」と聞かれて曖昧な顔をした。

多くの夫婦が乗り越えてきた問題の最初の関門の中にいた。

何故多くの近所の幼馴染から夫を選ばなかったのだろう。

其れは犬にかまれたと言う意味が解った頃から
其れを知っている男達は消えた。

既に心の傷は消えているはずなのに
其の事を近所の人も含めて誰一人口に出す人は居ないのに。

自ら私は彼らを避けていた。

私が大人になるにつれて彼らを避けている事は彼らも気が付いていた。

恋愛に持ち込めば私の傷に触れる気がしたのだろう。

遠くから見守る事をしてくれている事も知っていた。

電話で事情を放すと彼は仕事途中なのに直ぐに来てくれた。

そして多分そこにいるだろう家に連れて行ってくれた。

私はメモ書きをして其の家の玄関の新聞入れから中にメモを
音がする形で入れた。

そして其の家を去って家まで送って貰った。

其の時の車の中でかかっていた音楽が「傷だらけのローラ」だった。

ふと横の彼を見ると目から涙が伝い落ちていた。

どうにもならない事は二人とも解っていた。

「同情される事を屈辱」と感じる事が解る位
私と彼らの関係は毅然とふるまう私によって彼らを拒否していた。

だから「犬にかまれた事」は決してなくならい心の傷として
残っていた。

其れでも、それでも親達も近隣の人達も彼らも
私が生きて帰って来た事が良かった事も解っている。

心無い人が私の過去を在る事無い事を夫に吹き込んだ。

其れでもそんな事では夫婦は古い昔の女に選挙権も無かった頃の考え方で
夫婦が別れる事は無かった。

其れが別れるきっかけは此のままだと全員が食べて行けないと言う事だった。

夫一人なら何とか食べて行かれる。

子供連れのシングルマザーなら手当と私の仕事で食べて行かれる。

夫婦共稼ぎでも保育園が開いて無かったし、
保育園費が高額だった。

此れは例の悪名高い返せないでどんどん膨らむ育英会の奨学金の返済が
借金として残り続けているのだ。

計算して別れた方が良いと言うまでに奨学金の返済で追い詰められていた。

何年経っても幾らに更に分割しても返還年数を金額を細かくして
伸ばしても、給料の上がる分に追いつかなかった。

家賃もバブルで高くなって行った。

そして勿論女性の働き口も在った。

だがシングルマザーへの子供への補助金を貰って暮らした方が
保育園も入れたし、市営住宅も入れたし、
当時はそう言う状況だけ子供の医療費も補助された。

あれから何十年経つだろう。

まだこれらの総ての問題が改善されていない事に驚く。


あの時車の中でかかっていた歌が今度の事で思い出されて
あれも青春だったのかもと思ったりする。




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