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西郷どん 感想文

西郷どん 第17回「西郷入水」
NHK 日曜夜8時~
▼薩摩の実権
今回は、吉之助が月照を連れ薩摩に戻るも、薩摩では斉興が実権を握っていたため、2人に実質
処刑命令が下り、正助が助命嘆願に駆け巡りますが、力及ばず2人が入水自殺するというお話でした。
ドラマでは吉之助が月照を薩摩まで送り届けたかのように描かれていましたが、
実際は吉之助が先に薩摩に到着しました。
月照が薩摩に到着したのは、1858年の11月。
斉彬の時代なら歓迎されたでしょうが、斉彬大嫌いの斉興が復権しています。
詳しく書くと、藩主となったのは久光の実子・茂久です。
ただし両人ともこの名前になったのは、西郷の入水前ですので、
久光は忠教、茂久は忠徳と名乗っていました。
忠徳が茂久と名乗るようになったのは、西郷入水の翌年、家茂に謁見して偏諱をいただいてから、
忠教が久光と名乗るようになったのは、斉興が死去してから、西郷の入水から数えて約2年半後ですね。
まぁ、名前が変わると誰だかわかりづらくなるし、久光という名は特に有名ですので、
最初から久光として通すことにしたのでしょう。
ここでも久光・茂久で通しますが、茂久は最終的には忠義という名前になるようです。
この茂久が、斉彬の長女・てる子を娶り藩主となり、茂久の後は
斉彬の最後に残った男児・哲丸を藩主にするというのが斉彬の遺言だったようです。
しかし哲丸は幼くして死去し、茂久が藩主の間に明治維新が起きたため、
結局茂久が薩摩藩の最後の藩主となってしまいました。
斉興は実子であるにも関わらず、斉彬を毛嫌いしていましたが、久光は多分憧れてたんだと思います。
江戸という都会育ちで知識も人脈も豊富、頭がよく実行力がある兄、
そりゃあ田舎育ちの久光は憧れますよね。
相当のブラコンだったと思います。
その兄が死去し、自分の子が藩主となり、これからだ!と思った矢先、
斉興があっさり政権を奪い返してしまった。これはショックでしょう。
斉興は斉彬が藩主となる前は、久光に藩主の座を譲りたがっていました。
それなのにいざ斉彬が死去すると、今度は自分をないがしろにするようになるとは…。
しかしこのドラマの久光は、兄に対してはよき弟であるのに、家来に対しては粗暴で、
今ひとつ一貫性のない人物として描かれており、もうちょっとどうにかならなかったのかなと思います。
まぁ大久保は贔屓にしたものの、西郷に対しては冷たかったようですから、
あまり傑物として描きたくないという作者の思いが込められているのかもしれないですね。

▼日向送り
薩摩藩は、吉之助と月照を実質処刑である「日向送り」にすると決定します。
この時この刑を確定したのは誰だったのかなといろいろ調べてみたところ、
どうやら日向送りになったのは月照とその一行、つまり吉之助は含まれていないのです。
また、茂久が藩主に就任したのはその年も押し迫ってからだったので、
この頃の薩摩藩は藩主不在であり、誰が決定したのかよくわかりません。
まあ斉興の意向が強く含まれていたのではないかとは思いますが、
薩摩藩はどうやら、藩士である吉之助まで日向送りにするつもりはなかったようですね。
ドラマでは正助が斉興と交渉し、吉之助が月照を殺せば吉之助だけは許してやる
というような密約が交わされていましたが、実際にそんな感じだったのかもしれません。
そもそも日向送りとは、外部からの侵入者に対する処刑だったようなので、藩士である吉之助に
命じられたのは、月照一行を日向送りにする側だったというのはもっともな話です。
吉之助も日向送りを命じられたのかどうか、あちこち調べてみたのですが、
はっきりと断言して書いてあるサイトは見当たらず、
後に薩摩藩は、助かった吉之助を変名させ、奄美大島に匿ったところをみると、
やはり吉之助には日向送りを命じなかったというのが、正しいのかなと思います。
お由羅騒動で自藩の有能な藩士を次々処刑した斉興とは思えない、変わりっぷりを思うと、
まったくの想像なのでもし間違っていたら恥ずかしいのですが、
この頃すでに久光の意向が藩内に通るようになっていて、吉之助の処遇を決めたのは、
兄に憧れていた久光だったのかもしれないなと思ったりしています。




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